渡部 亮次郎
芸者でも何でもなく、民謡好きの下駄屋の内儀であった音丸(おとまる=1906-1976)。芸者歌手は地方巡業に際して、時間拘束の費用として莫大な花代がかかる事から、苦肉の策として芸者と同じに小唄を歌わせても遜色のない筑前琵琶をたしなむ女性をレコード会社で探していた。
その結果、東京・麻布(あざぶ)の末広神社近くの下駄屋の内儀であった永井満津に白羽の矢が立ったのだった。
昭和9(1934)年にレコードデビュー。芸名は音は丸いレコードから、という意味。翌年に古関裕而作曲の「船頭可愛や」がヒット。同曲を沖縄民謡の普久原恒勇が日本最高の歌謡曲と絶賛している。
散歩しながら音丸のMDで聴いていたら「満洲想えば」が聞えてきた。昭和11年生まれの私だが、よく覚えていた。幼くしてレコードで聴かされたのであろう。
「満洲想えば」は敦賀で盆踊りの歌として特注された「大敦賀行進曲」をプレスするにあたって、レコードのB面を満洲に行く兵隊が多い時局から「満洲想えば」としたところ、慰問で前線へヒットし一般発売となったもの、という。
作詞=高橋掬太郎、作曲=大村能章。
1.ハア― またも雪空 夜風の寒さ
遠い満洲が エー満洲が気にかかる
(以下省略)
国民学校(小学校)4年の時「敗戦」。それっきり 満洲の事は学校で習わぬまま老人になってしまった。
満州国(満洲国、まんしゅうこく、英語: Manchukuo)は、1932年から1945年までの12年間間、満洲(現在の中国東北部)にれっきとして存在した国家。
日本領有下の朝鮮および中華民国、ソビエト連邦、モンゴル人民共和国、蒙古自治邦政府と国境を接していた。面積 1,133,437km2 人口1937年 36,933,206人
満洲(現在の中華人民共和国東北地区および内モンゴル自治区北東部)は 、歴史上おおむね女真族(後に満洲族と改称)の支配区域であった。満洲国建国以前に女真族の建てた王朝として、金や後金(後の清)がある。
清朝滅亡(1912年)後は中華民国の領土となったが、政情は安定せず、事実上軍閥の支配下に置かれた。1931(昭和6)年、柳条湖事件に端を発した満洲事変が勃発。
関東軍(大日本帝国陸軍)により満洲全土が占領された。関東軍の主導のもと同地域は中華民国からの独立を宣言し、1932(昭和7)年、満洲国の建国に至った。元首(執政、後に皇帝)には清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀が就いた。
愛新覚羅溥儀満洲国は建国にあたって自らを満州民族と漢民族、モンゴル民族からなる「満洲人、満人」による民族自決の原則に基づく国民国家であるとし、建国理念として日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による「五族協和」を掲げた。
満洲国は関東軍及び日本政府の強い影響下にあり、「大日本帝国と不可分的関係を有する独立国家」と位置付けられていた。当時の国際連盟加盟国の多くは、「満洲地域は中華民国の主権下にあるべき」とする中華民国の立場を支持して日本政府を非難した。
このことが、1933(昭和8)年に日本が国際連盟から脱退する主要な原因となる。その後ドイツやイタリア、タイ王国など多くの日本の同盟国や友好国が満洲国を承認し、外交関係を持つこととなった。
第2次世界大戦末期の1945年(昭和20年)8月9日、ソビエト連邦(赤軍)による侵攻を受け、8月15日の日本降伏により崩壊。満洲地域はソ連の支配下となり、次いで中華民国の国民政府に返還された。
その後の国共内戦における国民政府の敗北により、現在は中華人民共和国の領土となっている。
現在この地域を統治している中華人民共和国や、かつて統治していた中華民国は同地域について「満洲」という呼称を避け、「東北」と呼称している。日本では通常、公の場では「中国東北部」または注釈として旧満洲という修飾と共に呼称する。
当時複数の国が満洲国を国家として承認していたものの、日本の敗戦とそれに続く極東裁判を経て、満洲国は日本の軍事行動により建国され、建国後の国家体制も日本の強い影響下にあったことから、日本の傀儡政権との認識が現在においては一般的である。
中華民国及び中華人民共和国は、現代でも満洲国を歴史的な独立国として見なさない立場から、否定的文脈を用いて「偽満州国」と表記することがある。
若い頃、官僚として満洲に出向したことのある岸信介は、後にA級戦犯に問われながら無罪となり、首相に就任した。2010・8・9
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