2010年11月12日

◆農村の神武(ずんむ)たち

渡部 亮次郎

日本の農村に嫁が来なくなる話を初めて書いたのは「楢山節考」を書いて日本中にショックを与えた深沢七郎の「東北の神武たち」という小説だった。1957年、東宝で映画化もされた。九里子亭脚本、市川崑監督だった。

<かつての東北は貧しく、そこに生まれた次男、三男達は「やっこ」と呼ばれ、長男と区別する為にボロを着せられ、ヒゲも伸び放題で、一生、土地も嫁ももらえない存在であった。彼らやっこのあまりにみじめなその姿が、どこか遠い昔の神武天皇に似ているというので、土地では「神武(ズンム)」と呼ばれていた。・・・>

しかしいまや全国の過疎地はどこも長男の「ずんむ」だらけだ。

1957(昭和32)年といえば日本は敗戦からまだ12年。食うや喰わずの境地をやっと脱出したころ。経済白書が「もはや戦後ではない」なぞ生意気なことをほざいて居たが、まだ十分貧しかった。大学生の私は月1万円で何とか暮らせたが。

秋田で「神武」になるべき私が大学に入学できたのはありがたくも両親や兄弟のお陰だが、それらを底で支えたのが「農地解放」だった。

<一般には,連合国軍の占領下に日本で実施された農地改革を指す。それは,1946年10月公布の〈自作農創設特別措置法〉および〈改正農地調整法〉に基づいて47年から50年にかけて実施された。

その骨子は,(1)不在地主の全貸付地と,在村地主の貸付地で保有限度(都府県で平均1ha,北海道で4ha)を超える部分を国が強制買収し,それを小作農に売り渡す(以下略)


(2)自作農の農地最高保有限度を原則として都府県平均3ha(北海道は12ha)とする,

(3)小作料を金納制とし,最高小作料率を設け(田は収穫物価額の25%,畑は15%),小作料統制を実施し,さらに小作契約の文書化を義務づけ,土地取上げの制限を強化し,耕作権の移動を当面知事の許可制とする,

(4)農地の買収・売渡しは2ヵ年間で完了させることとし,買収・売渡し計画の作成主体である市町村農地委員会の階層別委員構成を,地主3,自作農2,小作農5とする,などである。

この農地改革によって,地主的土地所有制度は基本的に解体され,それにかわって自作農的土地所有制度(自作農体制ともいう)が広範に創出されることとなった。>

<改革前の状態に比べるならば,それは全体として農業生産力と農民の生活水準の上昇に寄与したといってよい。改革後の零細自作農民は,1960年代の高度成長期以降急激に分解を遂げ,農家労働力の脱農・賃労働者化,農家の兼業化が急進する。

しかし,その場合の賃労働者化も,改革前の貧窮小作農民の賃労働者化に比べるならば,総じてよりましな賃労働者化だといってよいのである。暉峻 衆三>平凡社「世界大百科事典」)

米どころ秋田でも、当時は1反歩(10アール=300坪)当り5−6俵(1俵60Kg)ぐらいしか収穫できなかった。しかもその半分は地代として地主の納入しなければならないから、結局、小作人は「死なない程度の生かされていた」のである。(元秋田魁新報常務取締役渡部誠一郎談)

社会主義思想の流入は小作制度の不合理を訴え、全国各地で小作争議が起きた。

<第2期の争議規模をみると,争議1件当り参加地主数約5人,参加小作人数約20人,関係耕地面積10〜20町歩で,第1期と比べて明らかに小規模化した。中小地主の窮迫による自作化をあるいは土地売却要求を原因とした小規模な土地返還争議の激発,これが第2期の小作争議の特徴である。

このような地主攻勢のなかで,小作貧農が争議主体として登場し地主に苛烈に抵抗したのもこの期の特徴であった。小作人のなかでももっとも窮乏化していた小作貧農は,恐慌のもとでわずかの兼業機会も奪われ,土地への執着度はいっそう強まった。

その小作貧農がひとたび小作料減額を要求し,小作料を滞納すると,地主はすかさず土地返還を迫り,小作人の耕作権に対抗する手段に訴えた。それゆえこの期の争議は,小作人にとって,生産と生活の唯一の場である土地をめぐっての命がけの闘争であり,きわめて先鋭的な内容をもっていた。

新潟県王番田争議,同和田村争議,栃木県阿久津争議,山梨県奥野田争議,長野県五加村争議,北海道雨竜蜂須賀争議,秋田県阿仁前田争議などがこの期の代表的争議であるが,深刻な恐慌を背景にきわめて激化した争議形態をとり,天皇制権力の弾圧も苛烈をきわめた。

農民は,防衛的な争議を強いられるなかでも,要求を小作料減免から耕作権確立へとつき進め,地主的土地所有との対抗をより鋭いものとした。

しかし,第1期に引き続きさらに強化された弾圧・規制は,中心的な農民組合活動家に集中して農民組合の活動を困難にした。また満州事変の勃発による排外主義の高揚は,農民運動の中にも右翼的潮流や国家主義的傾向を生み出し左翼的農民運動の分裂・後退を余儀なくさせた。>(同)

戦後のマッカーサーの行った占領政策の詳細については西 鋭夫著「国破れてマッカーサー」(中央公論文庫)のご一読をぜひお奨めする。

<農地改革前の1941年には,小作農は総農家のほぼ3割を占め,多少とも耕地を借りている自小作や小自作農家まで含めると7割に達していた。小作農の5割は経営耕地面積50a未満層に,8割までが1ha未満層に含まれ,自作や自小作農家に比して零細経営に集中していた。

これら小作農は地主から収穫米の半分に達する高額現物小作料を徴収され,かつ地主の都合によって随時土地をとりあげられるなど耕作権(賃借権)がきわめて弱く,地主に債務を背負って人格的にも隷属的である場合が多かった。

こういった貧しい小作農家から紡織工業の女工をはじめ,きわめて低賃金で,劣悪な労働条件に甘んじて働く労働者が多数出現した。

小作農民にとって,小作料減免と耕作権強化,ひいては土地所有権取得による自作農への転化は切実な要求であり,この問題をめぐってはげしい小作争議,小作運動が展開された。

第2次大戦後の農地改革は,耕地の上に成立していた地主的土地所有を基本的に解体し,小作農を著減させ,逆に,圧倒的多数の農家を自作農ないし自小作農家に転化した。暉峻 衆三」(同)

戦前の農村で農家は収穫量の半分以下しか所有できなかった。加えて,化学肥料が発明されておらず、極めて貧しかった。明治時代の日露戦争に農村から徴兵された次三男が満洲に渡る船中で脚気のために大量に死亡したのはこれを物語る。

彼らは農家に生まれながら、白米を食したのは盆と正月ぐらいだったから。村では麦などの雑穀を食していたから結果的にビタミンB1を摂取できていた。

ところが陸軍に入隊すると、白米は無料で無制限、副食物は現金支給だった。彼らは白米に塩をかけたり、漬物だけでたらふく食べ、現金は家元に送金した。

だから極端なビタミンB1不足による脚気で死んだのだ。その医学的意味を陸軍軍医総監森林太郎(鴎外)は解明できなかった。 (この点は吉村昭著「白い航跡」(講談社文庫)を一読されたい)。

この状態は1945年まで続いた。農地解放を政府はそれまで何度も試みたが、保守勢力の反対に遭って決して実現できなかった。

ところが敗戦とともに進駐してきたマッカーサーの命令で直ちに実現、小作農は直ちに所得を2倍に伸ばし、その後化学肥料の普及、農作技術の発達により所得は更に上昇して4倍に達した。

品種改良、肥料の開発、栽培方法改良が効果的だった。早撒き、早植え、早収穫の「三早栽培」で台風の被害を回避したのなんかは大きな効果だった。

農村にまで進駐軍は来なかったから、大都会のような強姦事件もギヴミー・チョコレート現象も起きなかった。しかし農地を自分のものにしてくれた進駐軍は農民にとって、神様に見えなかったら何に見えただろうか。それに生産したものはすべて自分のものになることから来る意欲の向上。

農民が増えた所得で最初に買ったものは、自転車、ラジオだった。これにより日本の産業界はまず軽工業から発展し始め、やがてそれらが重工業を押し上げ、高度成長を齎すこととなった。農家の子弟が大学に行ける様になったは、その後の兼業が大いに力になったが、過疎を齎して現在に至るのは皮肉である。

農家で農作業に女性は不必要となっている。

 (1)播種ー温室の中で男のしごと

 (2)植え付けー機械-男で十分

 (3)除草ー薬剤散布ー男で足りる。

 (4)水確保ー男で足りる。

 (5)刈り取りー機械、男で足りる。

 (6)乾燥ー機械、女でなくとも良い。

 (7)脱穀、袋詰め-機械ー男。

昔は(2),(3),(5)に女性が動員された。しかも主婦をやりながら、育児もあった。しかし、水田で嫁のやる仕事は皆無になった。

しかし、コメの値が下がり続ける反面、機械は値上がりが続く。兼業農家のお父さんは会社の給料を農機具につぎ込んでいる。或いは後継者がいないのはまだいいほうで、後継者に50になっても嫁がいないのがザラ。

中国やフィリピンから「輸入」した嫁に殺されたり騙されたりの事件が多発しているのはこのため。農家は娘は都会に出して長男には地元から嫁をというが、それは初めから無理。別の人に言わせると、農村の封建制は全く改まっていないことを女性は知っている。だからこそ嫁に来ないのだというが。


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