2010年11月29日

◆東大安田講堂事件

渡部 亮次郎

東大安田講堂事件は、1969年(昭和44年)1月18日、19日に、全学共闘会議(全共闘)が占拠していた東京大学本郷キャンパスを警視庁が封鎖解除を行った事件である。東大安田講堂攻防戦ともいう。この影響で、この年の東京大学の入学試験は中止され、次年度の入学者は0人となった。

その頃、私は既に政治記者をしており、自民党を担当、学生たちの行動を冷たい目で見ていた。菅首相も仙谷官房長官もこうした学生運動で左翼思想を深めていった。

東大安田講堂は安田財閥の創始者、安田善次郎の匿名を条件での寄付により建設されたが、神奈川県大磯の別邸で右翼に暗殺された安田を偲び、一般に安田講堂と呼ばれるようになる。

東京大学建築学科の建築家、内田祥三(のちの総長)が基本設計を行い、弟子の岸田日出刀が担当した。1921(大正10)年に起工、関東大震災による工事中断を経て1925(大正14)年7月6日に竣工した。

震災後に建てられた学内の建築が茶色のスクラッチタイルで統一されているのに対し、本講堂が理学部旧1号館と同じ赤レンガなのはこのためである。

1960年代後半、高度経済成長の裏で激化の一途をたどっていた学生による第2次反安保闘争と時を同じくして、全国の国公立・私立大学において授業料値上げ反対・学園民主化などを求め、各大学の全共闘や新左翼の学生が武力闘争を展開する学園紛争(大学闘争)が起こった。

全共闘の学生達は大学当局との「大衆団交」(団交)で自分たちの主張を強硬に唱え、それが認められない場合は大学構内バリケード封鎖という強硬手段に訴えた。

学園紛争は全国に波及し、最盛期では東京都内だけで55の大学がバリケード封鎖に入り深刻な社会問題に発展していった。

その中で、東京大学では、医学部の学生が登録医制度反対などを唱え通称インターン闘争に始まる東大紛争(東大闘争)を展開した。

その後、更に闘争は激化し、1968(昭和43)年3月12日に医学部総合中央館を、3月27日に安田講堂を一時占拠し、翌日予定されていた卒業式は中止された。

6月15日に医学部学生が安田講堂を再度占拠し、大学当局の大河内一男東大総長は警察力を導入しこれを排除したが、これに対して全学の学生の反発が高まり、7月2日、安田講堂はバリケード封鎖された。

以後、大学当局は打開を図ったが更に学生の反発を招き、東大全学部の学生ストライキ、主要な建物多数の封鎖が行われた。11月には大河内総長以下、全学部長が辞任した。

工学部列品館を占拠したML派の瀧沢征宏(明治大学生)が書いた「造反有理」のスローガンは有名である。

9月30日の日大大衆団交を受けて、佐藤内閣が動き出す。佐藤首相、幹事長田中角栄、国対委員長園田直らはこの事態を学園紛争ではなく、80年安保反対闘争の前哨戦ととらえ、完全に治安対策として取り締まる決意を固めた。

だから政府自民党が大学管理法の制定決意を固めたのは既にこの時機だった。この後、事態は完全に政治問題と変化する。

11月22日、全学バリケード封鎖にむけて全共闘系7千名、阻止する日共(民青)系7千名が全国から集まり、にらみあう。全共闘系内部においては早稲田革マルの藤原が中心となって、全学バリケード封鎖反対を各派に恫喝的に説得する。

結果的に全学バリケード封鎖は中止となり、背景を知らない学生の一部では、戦時中のレイテ沖海戦の史実と絡めて、「栗田艦隊謎の反転」と語られる。民青系に敗北したと言うより、民青系と衝突してでも強行しようという意思が、内部から崩壊したのである。

11.22以降の下り坂

大河内総長の後任に法学部の加藤一郎教授が総長代行として就任し、1969年1月10日、国立秩父宮ラグビー場で「東大七学部学生集会」を開催。

民青系や学園平常化を求めるノンポリ学生と交渉によりスト収拾を行うことに成功したが、依然、占拠を続ける全共闘学生との意見の合致は不可能と判断し警察力の導入を決断、1月16日警視庁に正式に機動隊による大学構内のバリケード撤去を要請した。

封鎖解除1日目

警視庁警備部は8個機動隊を動員し、1月18日午前7時頃医学部総合中央館と医学部図書館からバリケードの撤去を開始、投石・火炎瓶などによる学生の抵抗を受けつつ、医学部・工学部・法学部・経済学部等の各学部施設の封鎖を解除し安田講堂を包囲、午後1時頃には安田講堂への本格的な封鎖解除が開始された。

しかし強固なバリケードと学生の予想以上の抵抗に機動隊は苦戦を強いられ、午後5時40分警備本部は作業中止を命令。18日の作業は終了した。テレビの視聴率は高かった。

封鎖解除2日目

1月19日午前6時30分、機動隊の封鎖解除が再開された。2日目も学生の激しい抵抗があったが午後3時50分、突入した隊員が3階大講堂を制圧し午後5時46分屋上で最後まで抵抗していた学生90人を検挙。東大安田講堂封鎖解除は完了し機動隊は撤収した。

警察側の記録によると、この日の封鎖解除で検挙された学生633人のうち、東大生はわずか38人であったという。

ただしこれについては、全共闘側の関係者(今井澄、島泰三)から異論が出ており、島は公判で起訴された東大関係者(54名)の数と、全体の逮捕者と起訴された者の比率等から80〜100名程度の東大関係者が東大構内に立て籠もったと推定している。

更に、秩父宮ラグビー場における七学部学生集会粉砕闘争で駒場共闘の中心メンバーが100人以上逮捕されていることも考慮しなければならない。

東大全共闘の一部と革マル派は封鎖解除前日の17日「兵力温存」を理由に大学構内から脱出、当日抵抗していたのは他セクトと地方を含む他大学からの応援部隊が中心であった。

革マル派は、後日他セクトから「日和見主義」などの批判を受け、他セクト(特に中核派)との対立を深める結果となった。

なお、学生によって、丸山眞男をはじめとする碩学が吊し上げられたり、明治以来の貴重な原書が燃やされてストーブ代わりになるなどの暴挙が行われた。

紛争によって荒廃した大講堂は20年間に亘り、法学部・文学部の物置として使われていた(事務室は順次学生部などとして使われるなどしていた)。

富士銀行をはじめとする旧安田財閥ゆかりの企業の寄付もあり 1989年に大講堂の改修工事が完了し、こけら落としはスティーヴン・ホーキングの来日講演であった。それ以後、卒業式などの全学的行事に使われるほか、公開講座なども行われている。

出典:フリー百科「ウィキペディア」

こうした学生運動にあわせて大学管理の法律が整備されて行った。これをきっかけに運動は沈静化。今日では学生運動は存在しなくなった。


<安田善次郎(やすだぜんじろう)1838‐1921(天保9‐大正10)

明治・大正期の実業家。無一文から出発し,一代にして財を築きあげ,安田財閥の祖となった。富山藩の下級士族の家に生まれる。父の善悦の代に士族身分を買ったが,善次郎の幼年時代は農業もあわせ営む貧しい生活であった。

1858 (安政5) 年,商業で身を立てる志を抱いて江戸へ出,銭両替商に奉公した。62 (文久2) 年、鰹節商に入婿したが,銭投機に失敗して離縁。64 (元治1) 年に銭両替商安田屋として独立した。66 (慶応2)年に日本橋小舟町に移り安田商店と改称したころから古金銀,太政官札,公債の売買によって巨利を博し,一躍財をなした。

80年安田銀行を設立,善次郎が中心となり1876年に設立した第三国立銀行とともに,安田の金融事業の柱となった。その後,銀行新設に参加したり,経営の悪化した銀行を引き受けたりして,一大金融網を築きあげ,〈銀行王〉と呼ばれた。

安田系企業を統轄するための持株会社として1912年合名会社保善社を設立した。その間,日本銀行理事,農工商高等会議議員,日本興業銀行創立委員などを務めた。また浅野総一郎,雨宮敬次郎ら実業家の事業を援助した。

晩年には日比谷公会堂,東京帝国大学講堂(安田講堂)の寄付や,東京市政調査会の後援など,公共的事業も行った。21年9月,大磯の別荘において暴漢朝日平吾に刺殺された。>
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