2010年12月02日

◆湯河原に重宗邸なく

渡部 亮次郎

家人の姉妹達が夫婦で旅行することになり、7人で車で出かけた。28日。好天だった。途中、箱根で紅葉を見たいということになったが、箱根の紅葉はさっぱり。箱根神社に参拝と言うが、へそ曲がりは下車もせず。

目的地は湯河原温泉だと言う。穏やかでなくなった。湯河原は当時の参議院議長重宗雄三の別荘の所在したところである。ここで記者の枠を超えて重宗・福田会談をセットした上に、産経新聞の沖野三記者とともに、その後の昼食会にも加わった。

当時は、ポスト佐藤栄作を巡って、本命福田赳夫、対抗馬田中角栄が「戦争」と言われたぐらい激しく争っていた。参院議長重宗はそれまでの経緯からして福田支持とされていたが、それを強固にする為に企てられた会談だった。

「戦争」と表現された福田と田中の争いは熾烈を極めたが、途中、重宗が河野謙三の「乱」により失脚を契機に田中が次第に巻き返し結果は、大平、三木、中曽根と組んだ田中が勝利した。

田中内閣発足とともに私はなぜか総理官邸担当のNHKサブキャップに就任したが、1年を待たずに展開した田中批判の舌鋒が田中の逆鱗に触れることとなって大阪に左遷。その直後、重宗は病死した。

その重宗の別邸のあった湯河原町。別邸は胸のつっかえるような急な坂の途中にあったはずだが、あれから既に何十年も経っている。当時を知る人を捜すこともできず、悲しみだけが私を襲ってきた。だが皆にはこれを一言も語らなかった。

大阪からは3年で戻ったが政治部へは戻れず、そのうちに園田直の外務大臣就任に伴ってNHKを退職、秘書官に就任。以後も複雑な経歴を辿って今日があるのだ。

翌日、大磯で古い「鰻屋」で昼食。「国よし」といった。1808年の創業。吉田首相はおろか伊藤博文も愛用した店と言う。一番安い鰻重で4200円もした。美味かったが半分しか食べられなかった。その昔の客に島崎藤村があったと書かれていたからである。

島崎は兄の娘つまり「姪」を手篭めにした不道徳漢。許せない。聞けば、湯河原に住まいし、墓もここにあるという。

29日、午後4時帰宅、解散。5時から高校の同期生10人で防衛省近くの料亭で忘年会。どうしたわけか余り酔わず、帰宅後呑み直した。

こうして2日間、散歩もせず、鯨飲馬食に打ちすぎて30日朝の血糖値が表れるのに打ち震えたがなんとたったの「120」とはこは如何に。文中敬称略。2010・11・30


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