渡部 亮次郎
<イラクのクウェート侵攻を機に、米国率いる多国籍軍がイラクを空爆した湾岸戦争の開戦から16日で20年を迎えた。イラクは今でもクウェートに対する多額の戦後賠償を抱え、両国で1000人以上が行方不明になっている。>(CNN 1月17日)
大平内閣で外務大臣を務めた園田直氏(故人)は湾岸戦争に先立つ1980年、大臣を辞任後、総理特使として中東各国を歴訪した。福田赳夫内閣の外務大臣当時、日本の外務大臣としては初めて中東各国を歴訪した園田氏だったが、イラクのフセイン大統領と会ったのは今回が初めてだった。
その園田氏が帰国して面会した私に語った言葉を今でも忘れない。
「あれほど気味の悪い政治家はいない。あれは人殺しの目だ、今に大事件を起こす」。サダム・フセインのことだった。
その10年後の1990年8月、サダム・フセイン大統領率いるイラクは隣国クウェートに侵攻し、同国をイラクの19番目の州にすると宣言。
これに対して米国主導の多国籍軍が91年1月16日に「砂漠の嵐」作戦を開始した。当に園田氏の予想した大事件をフセインは起こしたのだった。
<フセイン政権が崩壊し過去のものになった今でも、クウェートには90年の侵攻による傷跡が残る。世界の紛争に詳しい国際機関「国際危機グループ(ICG)」のジュースト・ヒルターマン氏は「イラクがクウェートを独立国とみなさず、再び自国の19番目の州だと主張しようとするのではないかとの不安をクウェートはまだぬぐい切れない。
クウェートは、そうした事態が繰り返されないという何らかの保証を求めるだろう」と解説する。
国連は昨年12月にフセイン政権時代のイラクに対する制裁を解除した。しかし、クウェートとの間の懸案解決を求める国連決議はまだ有効だ。
イラク、クウェートなどの国では今でも1000人以上の行方が分からなくなっており、両国と赤十字国際委員会が協力して消息を調べている。
イラクは戦後賠償の支払いも続けている。政府によればこれまでに300億ドル相当を支払ったが、まだ200億ドル以上の負担が残る。賠償金は同国の主な収入源である石油収入から支払っている。
政府報道官は、イラクは自国のためにも資金が必要であり、既に十分な額を支払ったと主張。「サダムが他者に損害を与えたことは認めるが、もう十分だ」「破壊された自分たちの国を再建するためにできる限りの資金が必要だ」と述べた。
両国の国境は国連の手を借りてようやく確定したが、双方にとって未解決の問題は残り、イラクの約200世帯は転居を迫られている。
両国間に今も残るこうした緊張の緩和に向けて、クウェートのナセル首相は12日、バグダッドを訪問した。同国高官のイラク訪問は数十年ぶりとなる。イラクのマリキ首相も近くクウェートを訪問する見通しだ。
一方で、両国関係に進展の兆しはあっても、根本的な問題は両国の信頼関係の欠如にあり、その構築は容易ではないと指摘する声もある。>
(CNN.co.jp 1月17日(月)11時51分配信)
サッダーム・フセイン 1937年4月28日―2006年12月30日)死は絞首刑による。日本語の慣例ではサダム・フセイン、または単にフセインとすることが多い。
1979年7月17日、バクル大統領が病気を理由に辞任すると発表した為、イラク共和国第5代大統領(兼首相)に就任した。
1988年に終結したイラン・イラク戦争は、イラクを中東の軍事大国へと押し上げる一方で1970年代の近代化政策がもたらした富をイラクから失わせ、サッダームの関心を、イランに代わって、豊かな石油資源を持ち、近代イラク成立以降からイラクのナショナリストらによってイラク領と主張されてきた隣国クウェートへと向けさせた。
サッダーム政権は、1990年、クウェートに侵攻し、これを占領、併合を宣言し、国連安全保障理事会からの撤退要求を黙殺した。
しかし、アメリカ合衆国をはじめとする国際社会の猛反発を受け、翌1991年の湾岸戦争でアメリカ合衆国を主力とする多国籍軍に敗退した。
イラク軍は負けた腹いせであるかのようにクウェートの米石油企業の油井を含む732本の油井を破壊しており、300人以上のクウェート人捕虜をイラク領内に連行し、撤退した。
湾岸戦争終結以降、イラクにはアメリカ合衆国を主導とする国際世界から経済制裁が科せられ、経済的に窮乏に追い込まれた。イラク側の主張によれば、この時期に化学兵器などの大量破壊兵器は廃棄したという。しかし相変わらず独裁体制だけは行っており、クウェートにまともに補償もしなかった。
クリントン政権時代はイラクを仮想敵国とみなしていたために米英軍は空爆を行っており、イラクと友好関係のロシア、中国、フランスが空爆に反対していた。
しかしサッダームは中国・ロシアとは貿易をしていたものの、北朝鮮の金正日体制と違い、後ろ盾として味方にはつけなかったため、のちにアメリカに攻撃を受けた。
2003年3月20日、アメリカ合衆国大統領ブッシュは予告どおりイラクが大量破壊兵器を廃棄せず保有し続けているという大義名分をかかげて、国連安保理決議1441を根拠としてイラク戦争を開始。攻撃はアメリカ軍が主力であり、イギリス軍もこれに加わった。
4月9日、バグダードは陥落したが、サッダームは既に逃亡していた。後にFBIの取調官に対しても、自分は4月11日までバグダードに潜伏しており、前日の10日に数人の側近と会合を持ち、アメリカ軍に対する地下闘争を行うよう指示したとされる。
5月2日、ブッシュ大統領はペルシア湾上に浮かぶ空母にて演説、「戦闘終結宣言」を出した。
2003年12月13日、サッダームはアメリカ合衆国陸軍第4歩兵師団と特殊部隊により、イラク中部ダウルにある隠れ家の庭にある地下穴に隠れているところを見つかり、身の周りの世話をしていた旧政権支持者の子息2人と共に逮捕された。
拳銃を所持していたが抵抗や自決などはしなかった。アメリカ軍兵士によって穴から引きずり出されて取り押さえられ、「お前は誰だ?」という問いに対し、「サッダーム・フセイン。イラク共和国大統領である。交渉がしたい。」と答えた。
また、サッダームの拘束作戦に参加していた元米兵による「大統領は拘束時、地面に掘った穴に隠れていた」とされる米軍発表は捏造だったとする証言もある。
証言したのは、レバノン出身の元米海兵隊員。アラブ系8名を含む20名の部隊に所属。サッダームを3日間、捜索していた。それによると「拘束時、部隊は激しい抵抗に遭い、米海兵隊員1名が死亡した」「大統領自身も建物の2階の部屋の窓から発砲してきた。
我々はアラビア語で『抵抗しても意味はない。降伏すべきだ』と叫んだ」「フセイン大統領が、拘束時に穴に隠れていたとする映像は米軍がデッチあげたもの。あの穴は使われなくなっていた井戸だった」という。この元隊員によれば、部隊が大統領を実際に拘束したのは12月12日で、米軍発表の前日だという。
2006年11月5日、サッダームはイラク中部ドゥジャイルのイスラーム教シーア派住民148人を殺害した「人道に対する罪」により、死刑判決を言い渡された。サッダームは判決を言い渡されると、「イラク万歳」と叫び、裁判を「戦勝国による茶番劇」だとして非難した。
2006年12月30日、サッダームは、米軍拘置施設「キャンプ・ジャスティス」から、バグダードのアーザミーヤ地区にある刑務所にて、絞首刑による死刑が執行された。
アメリカは処刑を翌年まで遅らせるようイラクに要請したが、ヌーリー・マーリキー政権は国内の「サッダーミスト」(サッダーム支持者)が本人の奪還を目的にテロを起こしかねないとの懸念から受け入れず、関係者共々刑を執行した。サッダームの死刑にシーア派勢力・市民は歓喜し、一方スンナ派勢力・市民は現政権を非難した。
刑執行後、サッダームの遺体は故郷であるアウジャ村のモスクに埋葬された。埋葬後は、住民らによって葬儀が執り行われた。
その後もサッダームの誕生日と命日には地元児童らが「課外授業」の一環として、サッダームの墓前に花を捧げ、彼を讃える歌などを合唱していたが、2009年7月、イラク政府はサラーフッディーン県当局に対して集団での墓参りを止めるよう命じた。(ウィキペディア)2011・1・17
◆本稿は、1月18日(火)刊の「頂門の一針」2158号に
掲載されました。その他寄稿者の卓見もご高覧下さい。
◆<2158号 目次>
・湾岸戦争から20年:渡部亮次郎
・産経・FNN調査の内閣支持率は28・3%:古澤 襄
・チュニジアの「ジャスミン革命」をどう読むか:宮崎正弘
・政治家の涙:古森義久
・おじいさんは車で買い物へ:平井修一
・話 の 福 袋
・反 響
・身 辺 雑 記
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