2011年01月27日

◆ダグラス・マッカーサー

渡部 亮次郎

1月26日は敗戦後の日本を占領軍代表として支配したダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur)の誕生日である。1880年1月26日 生まれ。先祖はイギリス貴族。逝去したのは 1964年4月5日、享年84。

1945(昭和20)年8月15日に日本は連合国に対し降伏し、9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリ艦上で全権・重光葵(日本政府)、梅津美治郎(大本営)がイギリスやアメリカ、中華民国やオーストラリアなどの連合国代表を相手に降伏文書の調印式を行ない、直ちに日本はアメリカ軍やイギリス軍、中華民国軍やフランス軍を中心とする連合軍の占領下に入った。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ1945年8月30日に専用機「バターン号」で神奈川県の厚木海軍飛行場に到着した。厚木に降り立ったマッカーサーは、記者団に対して第一声を以下の様に答えた。

「メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。

この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復は不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する」朝日新聞(1945年8月31)

その後横浜の「ホテルニューグランド」に滞在した。朝食に社屋に目玉焼きを注文したが、昼になってやっ1個だけの卵焼きしか出なかった。

降伏文書の調印式にアメリカ代表として立ち会った後東京に入り、以後連合国軍が接収した第一生命ビル内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍最高司令官総司令部(GHQ / SCAP)の総司令官として日本占領に当たった。

1945年9月27日には、昭和天皇を当時宿舎としていた駐日アメリカ大使館公邸に招いて会談をした。この会談に先立ってマッカーサーは昭和天皇を出迎えはしなかったが、昭和天皇の話に感銘を受けたマッカーサーは、玄関まで昭和天皇を見送るという当初予定になかった行動を取った。

その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日の29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。

これに対して内務省が一時的に検閲を行ったことは、GHQの反発を招く事になり、東久邇宮内閣の退陣の理由のひとつともなった。

これを切っ掛けとしてGHQは「新聞と言論の自由に関する新措置」(SCAPIN-66)を指令し、日本政府による検閲を停止させ、自ら行う検閲などを通じて報道を支配下に置いた。また、連合国軍と中立国の記者のために日本外国特派員協会の創設を指示した。

占領下の日本ではGHQ / SCAP、ひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉等が流行った。

「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が横浜の野戦病院(現・横浜市立大鳥小学校)に入院している際に彼の見舞いに訪れ、東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたという。

マッカーサーは、日本統治を、「政治家、経済学者、産業人、神学者」として行いたいという信条があった。

マッカーサー自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいた。

1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。

この声明にもっとも過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞は、マッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。、4月のウィスコンシン州の予備選挙で彼は共和党候補として登録された。

結果はどの州でも1位をとることはできなかった。6月の共和党大会では、1,094票のうち11票しか取れず、434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。

しかし、大統領に選ばれたのは現職の民主党ハリー・S・トルーマンであった。

マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、それは、もはやアメリカ国民の視線を気にせずに日本統治を行えることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。

第2次世界大戦後に南北に分割独立した朝鮮半島において、1950年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

当時マッカーサーは、アメリカ中央情報局(CIA)やマッカーサー麾下の諜報機関(Z機関)から、北朝鮮の南進準備の報告が再三なされていたのにも拘わらず、「朝鮮半島では軍事行動は発生しない」と信じ、真剣に検討しようとはしていなかった。

北朝鮮軍の侵攻を知らせる電話を受け取った際、「考えたいから一人にさせてくれ」と言って、平和が5年で破られたことに衝撃を受けていた。
 

6月27日になると、マッカーサーは朝鮮半島におけるアメリカ軍の全指揮権を国防総省から付与され、直ちに軍需物資の緊急輸送とアメリカの民間人救出のための船舶・飛行機の手配をした。国連軍としてはイギリス軍やオーストラリア軍を中心としたイギリス連邦軍やベルギー軍なども展開した。

28日になるとソウルが北朝鮮軍に占領された。僅かの期間で韓国の首都が占領されてしまったことに驚き、事の深刻さを再認識したマッカーサーは本格的軍事行動に乗り出すべくソウル南方の水原飛行場に飛び、李承晩大統領ら要人との会談を行った。

7月に入ると北朝鮮軍の電撃的侵攻に対して、韓国軍と在韓アメリカ軍、イギリス軍を中心とした国連軍は絶望的状況に陥った。マッカーサーは急遽在日アメリカ軍第8軍を援軍として派遣したほか、イギリス軍も追加派遣するが、装備が十分に整っていなかったため進撃を阻むことは出来ず、釜山周辺の地域を確保するので手一杯であった。

そこでマッカーサーはこの状況を打開すべく、ソウル近郊の仁川への上陸作戦を提唱した。この作戦は本人が「成功率0.02%」と言う程の至難な作戦であり、軍部の殆どが反対を表明、国防総省からシャーマン海軍作戦部長を東京に送ってまで中止にさせようとしたが、マッカーサーは作戦を強行した。

この作戦は大成功に終わり、戦局は一気に逆転し、国連軍はソウルを奪回することにまで成功した。これはマッカーサーの名声と人気を大きく高め、9月には早くもソウルを奪還した。

その後マッカーサーは勝利を重ねて朝鮮半島を北上するものの、トルーマンからは「中華人民共和国を刺激するので、過度な北上は行わないように」との命令を受けていた。

しかしマッカーサーは「中華人民共和国の参戦はない」と信じていたこともあり、補給線が伸びるのも構わずに中華人民共和国との国境まで迫った。

その結果、中華人民共和国に過度に警戒心を抱かせることとなり、中華人民共和国の国軍である中国人民解放軍で結成された「中国人民志願軍」の参戦を招くに至った。その後「中国人民志願軍」は人海戦術で国連軍を南に押し戻し、戦況は一進一退に陥った。

1951年になると、北朝鮮軍と「中国人民志願軍」の反抗が本格化し、再び戦線を押し戻すようになった。

このような状況を打開することを目的に、マッカーサーは中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、さらには同国への核攻撃の必要性を主張した。

しかしトルーマン大統領は、「核兵器を使用することでソ連を強く刺激し、その結果ソ連の参戦を招きかねない」としてこの意見を退けた。

マッカーサーが核攻撃を主張するのみならず、自らの命令を無視して北上を続けたために、中華人民共和国の参戦を招いたことに激怒していたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサーに対する更迭を発令した。

マッカーサーはそのとき愛妻のジーンと共に、来日したウォーレン・マグナソン上院議員とノースウエスト航空のスターンズ社長と会食をしていた。

副官のシドニー・ハフ大佐は、立ち上がったジーン夫人に解任のニュースを知らせ、「至急報」と書かれた茶封筒を渡し、夫人はまた、その茶封筒をマッカーサーに黙って渡した。

内容を読み終えたマッカーサーはしばらく沈黙していたが、やがて夫人に向かってこう言ったと伝えられている。「ジーン、これで帰れるよ」。

マッカーサーの更迭については、日本の行き過ぎた非武装化推進などが当時のアメリカ軍部からも異論が有ったためとも言われている。オマル・ブラッドリー統合参謀本部議長は「マッカーサー解任は当然である」と主張した。

4月16日にマッカーサーはマシュー・リッジウェイ中将に業務を引継いで東京国際空港へ向かったが、その際には沿道に20万人の日本人が詰め掛け、毎日新聞と朝日新聞はマッカーサーに感謝する文章を掲載した。

また、吉田茂の日本政府は彼に『名誉国民』の称号を与えることを決定したが、マッカーサーは受けるとも受けないとも言わなかった。マッカーサーを乗せた専用機「バターン号」は午前7時23分に東京国際空港から離日した。

退任演説を行うマッカーサー1951年4月19日、ワシントンD.C.の上下両院の合同会議に出席したマッカーサーは、退任に際しての演説を行った。

マッカーサーは最後に、ウェストポイント陸軍士官学校にマッカーサー自身が在籍していた当時(19世紀末)、兵士の間で流行していた風刺歌のフレーズを引用して、「老兵は死なず、ただ消え去るのみ(Oldsoldiers never die; they just fade away.)」と言い、有名になった。

この歌には何通りかの歌詞があるが、要約すると「遠くにある古ぼけた食堂で、俺たちは一日三度、豚と豆だけ食う。ビーフステーキなんて絶対出ない、畜生、砂糖ときたら紅茶に入れる分しかない。

だから、おれたちゃ少しずつ消えていくんだ。老兵は死なず、ただ消え去るのみ。二等兵様は毎日ビールが飲める、伍長様は自分の記章が大好きだ。軍曹様は訓練が大好きだ、きっと奴らはいつまでもそうなんだろう。だから俺たちはいつも訓練、訓練。消え去ってしまうまで」という痛烈なものである。

議場から出て市内をパレードすると、ワシントン建設以来の50万人の市民が集まり、歓声と拍手を送った。翌日にはニューヨーク市のマンハッタンをパレードし、アイゼンハワー凱旋の4倍、約700万人が集まって彼を祝福した。

マッカーサーは1952年に再び大統領選出馬を画策するが、すでに高齢で支持を得られず断念し、同年レミントンランド社(タイプライター及びコンピュータメーカー)の会長に迎えられた。

1964年4月5日に老衰による肝臓・腎臓の機能不全でワシントンD.C.のウォルターリード陸軍病院にて84歳で死去。偉人として国葬が執り行われ、日本代表として吉田茂が参列した。

筆者は小・中学生の頃。当時は事実を全く知らなかった。こうやって見ると元帥にのぼりつめていたとはいえ、軍人としては多くの判断ミスを重ねている。人間とはこんなもんだろうか。
(「ウィキペディア」)2010・1・25

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