2011年02月01日

◆結局自殺に追い込まれた江青

渡部 亮次郎

国共内戦の結果、1949年に毛沢東を国家主席とする中華人民共和国が建国され、江青はファーストレディとなった。しかし1960年代前半から、江青は政治活動に参加するようになり、かつての約束は反故となった。

当時、毛沢東が複数の女性との関係を持っていたために、夫妻は事実上離婚状態となっていた。そのため毛沢東は江青をなだめる必要があり、他の党幹部も政治活動を容認したという。

やがて1966年に始まる文化大革命で「四人組」の1人として活躍し、世界中に悪名を轟かせることになる。

1966年8月に中央文革小組第1副組長(陳伯達組長)に就任。革命的現代バレエを主張、京劇などの伝統芸能を排斥し、京劇界は多くの名優と演目を失うことになる。

1969年の9全大会、1973年の10全大会で中央政治局委員に選出。康生、謝富治らを使って多くの人物を冤罪に落しめ、張春橋、王洪文、姚文元との四人組を政治局で結成。林彪の失脚後の10全大会以降は文化大革命の主導権を握る。

表むきは夫毛沢東の忠実な部下を装い、「わたしは主席のためにパトロールする歩哨にすぎません」とよく口にしていた。

嫉妬深く自分より優れた所のある女性は容赦なく攻撃し、劉少奇夫人の王光美を失脚させたり、周恩来の養女で女優の孫維世を死に至らしめた。

江青は個人的に伝統芸能を好んでいたが、それを自分以外から取り上げることにまったく良心の呵責を感じていなかった。文革中は伝統芸能の打破を積極的に進めていたが、自身は景徳鎮などを愛し、熱心に収集していた。

さらに、1976年には復活したトウ小平を再度失脚に追い込み、批林批孔運動によって周恩来の追い落としも図ろうとした。しかし同年の毛沢東の死の直後に、「四人組」の1人として逮捕された。

1980年より他の「四人組」や林彪事件の関係者とともに裁判(「四人組裁判」)にかけられ、1981年に死刑(2年間の執行猶予付き)判決を受ける。1983年には無期懲役に減刑された。

1991年5月14日に、北京市北部の北京市昌平區にある小湯山秦城監獄で精神病の療養中に首吊り自殺した。古新聞の片隅に書かれた「毛主席 あなたの生徒 あなたの妻が いま…会いに行きます」というのが遺書である。

自殺については6月4日なってようやく新華社より発表された。本人は「生家の山東諸城に埋葬してほしい」と遺言状に残していたが、トラブルを懸念した江沢民が娘の李訥(毛沢東との唯一の娘)を北京の北京福田共同墓地に埋葬するよう説得した。

また葬儀費用約5〜6万元は李訥が負担させられた。墓石には、「先母李雲鶴之墓 1914年〜1991年 娘 娘婿 外孫建立」と彫られ、江青の墓とはわからないようになっており、また埋葬者の名前も刻まれていない。

死後も、「悪女」として名を馳せ娘の李訥が迫害を受けたり、日本では西太后らと共に悪女として名を連ねた番組が放映されたりしていたが、近年の中華人民共和国内では、毛沢東を主役にしたドラマなどでは賢女にされたり、同国の一部では「名誉回復」されている。

江青は右足の指が6本あった(李志綏著「毛沢東の私生活」上巻243ページより)。

1974年、江青はフィリピンのイメルダ・マルコス大統領夫人との会見に際して武則天を意識した特別製の礼服を作らせたが、さすがの江青も着ることをためらった。毛沢東の反対があったとされている。

毛沢東の葬儀で江青は黒服に黒のベールで顔を覆っていたが、アルゼンチン大統領ペロンの葬儀の時のイサベル・ペロン夫人(のち大統領)と同じ格好だったので、人々は、毛の後継者にならんとする江青の魂胆を読み取った。

「四人組裁判」の法廷では、これが一種の「政治裁判」であることを批判・嘲笑する言動をたびたびおこない、何度も退廷処分を受けている。

もっとも裁判では毛沢東の責任を検証しないなどそうした側面があったのは事実で、それ故に江青の言動が裁判を「茶番劇」から救ったと逆説的に評価する見解もある(辻康吾『転換期の中国』『文化大革命と現代中国』、いずれも岩波新書)。

女優時代から、養顔(美容)のために、出身地である山東省特産の阿膠(アキョウ)を飲んでいた。ハリソン・E・ソールズベリー『天安門に立つ - 新中国40年の軌跡』(日本放送出版協会、1989年)によれば、1976年当時の江青の頭髪はかつらで、実際にははげ頭であったという。

「一瞬のうちに毛(沢東)の棺の前で、そして党幹部の面前で、女二人の取っ組み合いの喧嘩がはじまった。王(海容。毛沢東の従兄弟・王季范の孫娘で当時外交部(外務省)副部長)は江青の頭に手を伸ばし、その髪を掴んでぐいと引っ張った。その瞬間、王はあやうく引っくり返って尻もちをつきそうになった。

気がつくと、手には何やら黒い塊がある。驚いて江青を見ると、その頭は卵のようにつるつるだった。黒いものは江青のかつらだったのである」。

写真を撮ることが好きで、現存する毛沢東の生活写真の一部は彼女が撮影したものである。陳永貴に「給料は食代と生活費以外殆ど本とフィルムにかかった」と述べた。また、上海照相机厰は彼女のために東風と紅旗カメラを開発した。(「ウィキペディア」)2011・1・26

◆上記2稿は、2月1日(火)刊の「頂門の一針 2169号に
掲載されました。

◆<2169号 目次>
・平気で嘘をつくタイプの小沢氏:乾 正人
・どこまで続く泥濘政治評論:石岡荘十
・結局自殺に追い込まれた江青:渡部亮次郎
・中国は欧米で銀行買収を開始:宮崎正弘
・「振り込め詐欺」が減っている:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

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