2011年02月13日

◆紀元節復活を求める声

渡部 亮次郎

建国記念「の」日制定の経緯を2011年2月11日の私のメール・マガジン「頂門の一針」に発表したところ、「あれは折角だから、元の紀元節に戻すべきだ」という声が寄せられた。

紀元節(きげんせつ)は、『日本書紀』が伝える神武天皇の即位日として定めた祭日。1873年(明治6年)に、2月11日と定められた。かつての祝祭日の中の四大節の一つ。

紀元節には、宮中皇霊殿で天皇親祭の祭儀が行われ、各地で神武天皇陵の遙拝式も行われた。1889(明治22)年には、この日を期して大日本帝国憲法が発布され、これ以降、憲法発布を記念する日にもなった。

1891(明治24)年には小学校祝日大祭儀式規程(明治24年6月17日文部省令第4号)が定められ、天皇皇后の御真影(写真)に対する最敬礼と万歳奉祝、校長による教育勅語の奉読などからなる儀式を小学校で行うこと
になった。

1914(大正3)年からは全国の神社で紀元節祭を行うこととなった。1926(大正15)年からは青年団や在郷軍人会などを中心とした建国祭の式典が各地で開催されるようになった。

紀元節が祭日とされていた当時、私は国民学校(小学校)1年から4年生(敗戦)まで当日、学校で紀元節の歌を合唱した。今でも口ずさめる。

歌曲「紀元節」

伊沢修二作曲、高崎正風作詞により1888(明治21)年に発表され、「小学唱歌」にも掲載された。

一、雲にそびゆる!)ちほの!)ねおろしに艸(くさ)も木も
  なびきふしけん大御世を仰ぐけふこそ樂しけれ

二、うなばらなせるはにやすの池のおもよりなほひろき
  めぐみのなみにあみし世を仰ぐけふこそたのしけれ

三、天つひつぎの!)みくら千代よろづに動きなき
  もとゐ定めしそのかみを仰ぐ今日こそたのしけれ

四、空にかがやく日の本の萬の國にたぐひなき
  國のみはしらたてし世を仰ぐけふこそ樂しけれ

宮中の賢所、皇霊殿、神殿では、紀元節祭が行われ、紀元節の祝宴も行われた。また、全国の神社においても、紀元節祭が行われた。

1947年(昭和22年)の皇室祭祀令廃止および1948年(昭和23年)の祝祭日廃止を受けて、1949年(昭和24年)以降、宮中祭祀において紀元節祭は行われなくなった。

しかし、昭和天皇も今上天皇も、2月11日には宮中三殿で臨時御拝を行い、橿原神宮へ勅使が派遣されている。また、御神楽奉納は神武天皇祭(4月3日)に併せて行われている。

民間では、一部の有志によって建国祭などと名称を変えて式典が行われている。

また、1967年(昭和42年)の建国記念の日制定以降、全国の神社でも再び紀元節祭が行われるようになった。神社本庁などから宮中での紀元節祭復活の要求があるが、宮内庁はこれを拒否している。

大東亜戦争後の1947(昭和22)年、片山哲内閣により、日本国憲法にふさわしい祝日の法案に紀元節が「建国の日」として盛り込まれていたが、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により削除された。

日本が独立を回復した1952(昭和27)年から復活運動がおき、1958(昭和33)年に国会へ議案が提出された。その後、「紀元節」の復活に賛否両論あるなか数度の廃案と再提案を経た。

1966(昭和41)年に、「建国をしのび、国を愛する心を養う。」という趣旨の「建国記念の日」を定める国民の祝日に関する法律の改正が成立した。

同改正法では、「建国記念の日」の具体的な日付について定めず、政令によって定めることとしていた。そのため、同年12月、佐藤栄作内閣は、審議会の答申に基いて建国記念の日となる日を定める政令(昭和41年政令第376号)を定めて、「建国記念の日」を2月11日とした。

同政令は即日施行され、翌1967年(昭和42年)の2月11日に実施された。こうして、紀元節の祭日であった2月11日は、「建国記念の日」として祝日となった。

建国記念「の」日制定までの国会の動きをNHK政治部記者として取材したが、昭和天皇の末弟君たる三笠宮崇仁親王の動きが国会や政府に与えた影響は大きかった。

三笠宮崇仁親王は大正天皇の4皇子。三笠宮崇仁親王(みかさのみや たかひとしんのう、1915年12月2日 ―)は、日本の皇族、歴史学者(古代オリエント史専攻)。

大正天皇と貞明皇后の第四皇子。今上天皇の叔父にあたる。御称号は澄宮(すみのみや)。身位は親王。皇室典範における敬称は殿下。お印は若杉(わかすぎ)。勲等は大勲位。皇位継承順位第5位。

現在存命中の皇族の中では最年長者であり、「三笠長老」の敬称を奉られることもある。「三笠宮」の宮号は、1935復活(昭和10)年12月2日に崇仁親王が成年式を行った際に賜ったもので、奈良市の三笠山にちなんで命名された。

紀元節に関しては、科学的根拠に欠けるとして復活に批判的であった。1991年にはフランスの「碑文・文芸アカデミー」の外国人会員に就任、また1994年6月にはロンドン大学東洋・アフリカ研究学院の名誉会員に就任した。

だから紀元節復活法案は一度も紀元節という文言は入らず。常に建国記念日法案として国会に議員立法として提案された。多分片山内閣が2月11日を「建国の日」と定めようとしながらGHQの反対で潰された影響もあったであろう。

しかし、紆余曲折を経て「2月11日」が建国記念「の」日となったのは建国記念日審議会の依頼により内閣総理大臣官房広報室が、昭和41年に実施した世論調査で、「元の紀元節」が47・4%を占めたことが大きかった。

同年9月29日から10月6日まで全国の20歳以上の男女1万人を対象(有効回収票8,700)、社団法人中央調査社の調査員による面接聴取したものだった。

果たして現在、「紀元節」に戻そうとしたら何%がどう反応するだろうか。

立命館大学教授 大阪大学名誉教授・加地伸行氏は産経新聞【正論】2011.2.11 03:22 で以下のように書き結んでいる。

< ◆先人への礼の心を確かめたい

それでは、建国記念の日にどう向き合うべきなのであろうか。

その第一は、なによりも先人に対する敬意である。われわれが日本というすぐれた国家において人生を過ごせるのは、先人たちの大変な苦労と努力の結果があったからである。

その敬意が感謝の念となり、自国を愛するという、人間としての自然な気持ちを確かめることこそ、建国記念の日における素朴な在りかたではなかろうか。

そうした敬意の表現、それを東北アジアでは「礼」と称したのである。先人への礼、皇室への礼、日本国民相互における礼−これは東北アジア特有、とりわけ日本ではそれが重んじられ、今日に至っている。

では、国家はどうあるべきであろうか。国家は国民以上に礼を尽くすべきであろう。「国(に、もし)礼なければ正しからず」(『荀子』王覇篇)と、すでに喝破されているではないか。

政権担当者こそ、建国記念の日を尊重すべきなのである。『春秋左氏伝(襄公二十一年)』に曰(いわ)く、「礼を怠れば、政(まつりごと)を失う」と。>

参考: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
2011・2・11

◆本稿は、2月13日(日)刊の「頂門の一針」2180号に
掲載されました。他の卓見もご覧下さい。

◆<2180号 目次> 
・ムバラク後のエジプト情勢:古澤 襄
・ムバラク退陣でNHKも死んだ:花岡信昭
・菅政権に漂う諦め、投げやりムード:阿比留瑠比
・紀元節復活を求める声:渡部亮次郎
・尾張名古屋は大(おお)地震:山堂コラム 357
・話 の 福 袋
・反     響
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