2011年02月18日

◆瀬島さんの津軽海峡冬景色

渡部 亮次郎

「週刊新潮」は2月17日発売の「創刊55周年記念特大号」の中(P46)で、瀬島龍三氏(故人)に触れ、娘さんに「父は歌が好きでした。中でも「津軽海峡・冬景色」が大好きで下」と語らせた後、「もしかすると瀬島氏は雪を歌った名曲にシベリア時代を重ね合わせて・・・」とコメントしているが、事実は違う。

その事は瀬島氏の死亡記事とともに「頂門の一針」921号(07・9・4)に書いている。再掲します。

瀬島氏が何故津軽海峡・雪景色」が好きだったかのわけを、流石に家族には語らないで逝去したようだ。おそらくわけを直接聞いたのは私たちだったのではないか。

<元大本営参謀で元伊藤忠商事会長の瀬島龍三氏が4日午前0時55分、老衰のため都内の自宅で死去した。95歳。富山県出身。

富山県の農家で生まれ、陸軍士官学校、陸軍大学に進学。太平洋戦争時、大本営参謀、終戦直前に関東軍参謀になった。終戦後はソ連軍の捕虜となってシベリアに連行され、1956年に帰国するまで抑留生活を送った。

58年、伊藤忠商事に入社。わずか4年で取締役に就任、石油部門への進出や、いすゞ自動車と米ゼネラル・モーターズ(GM)の提携仲介を手掛けるなど伊藤忠が総合商社に脱皮するのに貢献した。

副社長、副会長を経て78年に会長に就任し、87年から特別顧問、2000年から理事。

1981年に当時の中曽根康弘行政管理庁長官から臨時行政調査会への就任を依頼され、伊藤忠の会長を退いて臨調委員(土光臨調)に就任。「臨調の官房長官」として国鉄などの民営化に腕を振るった。 2007/09/04 02:52 【共同通信】>

瀬島氏の死に触れて、抑留遺児となった畏友古澤襄(ふるさわのぼる)氏は4日の同氏ブログの中で「敗戦後、ソ連極東軍司令官ワシレフスキー元帥と停戦交渉を8月19日にジャリコーウオ戦闘司令所で行ったが、秦彦三郎中将(総参謀長)に随行したのが瀬島中佐であった。

交渉といっても一方的なものであったと草地氏は回顧している。

この8月19日をめぐって、いわゆる瀬島疑惑が生まれている。」ことを語っている。   http://blog.kajika.net/

若い頃、NHK政治部で担当した河野一郎氏の次男洋平氏(その後衆院議長)の夫人(故人)が伊藤忠本家のご出身だったことから、大本営参謀から伊藤忠商事に入社した人物「瀬島龍三」の事は河野さんからよく聞かされていた。

しかし初対面は、私が大阪勤務から引き揚げた昭和51年秋ごろで、読売新聞政治部の外山四郎さん(故人)の紹介で、東京・神楽坂の料亭の一室だった。

いかめしい容貌を想像していたが全く雰囲気が違った。中肉中背、ごま塩頭の温和な「おじさん」。これが大本営参謀で、シベリア抑留11年の猛者とはとても思えなかった。

アコーデオンとギターのバンドを呼んでの歌になった。当時はまだカラオケが無かった。そこで瀬島さんが歌ったのは、石川さゆりの「津軽海峡・冬景色」だったが、下手で吃驚した。

聞けば若い頃、香港攻略に先立って、状況把握(スパイ}のため偽夫婦となってもらった婦人が津軽出身の女性だった。シベリヤから帰還してすぐ故郷を訪ねたが既に「石(墓)の下だった」。

阿久悠作詞、三木たかし作曲

2.ごらん あれが竜飛岬 北のはずれと
見知らぬ人が指を指す
息で曇る窓のガラス ふいてみたけど
はるかにかすみ 見えるだけ
さよならあなた 私は帰ります
風の音が胸をゆする 泣けとばかりに
ああ 津軽海峡・冬景色

その後瀬島さんが石川さゆりから直接歌謡指導を受けたと聞いたが、練習後の歌を聴く機会はないままに終わった。

<旧制富山県立砺波中学校、陸軍幼年学校を経て、陸軍士官学校を次席(首席は原四郎)で卒業。陸軍大学校を首席で卒業し、昭和天皇から恩賜の軍刀を賜る。>「ウィキペディア」

出身地富山県の隣の金沢の連隊に配属され、連隊旗手を勤めさせられた。「名誉な事ではあるが、在任中、童貞は守るというのが不文律。お勤めが終わったら金沢の花街(いろまち)で“公式筆おろし"なんだ。不潔でやりきれない、その足で犀川に入り洗ったよ」

「シベリアでは壁塗りをやらされた。天井を塗るんだけど、塗って梯子を降りた途端、バタツと落ちるんだ。又塗るけど、下りてきたら又落ちる。その繰り返し。

或る時、突然落ちてこなくなるんだ。知らぬうちにコツを体得したんだろうね。(だから人生も、なんていう説教はナシだった)。

「伊藤忠商事では社員の自殺事件は皆無です。それはその仕事に最も詳しい奴を本部長に据え、社長が副本部長になって奴を支えるから。奴の命令は社長命令だから奴が悩む事は無い。これは大本営の智恵です」

<山崎豊子の小説『不毛地帯』の主人公・壱岐正中佐、『沈まぬ太陽』の登場人物・龍崎一清のモデルであるともいわれ、『二つの祖国』では実名の記述が見られる。保守層を中心に支持者が多いが、証言が誠実でないとして批判もされていて、評価が分かれる人物である。>「ウィキペディア」

「不毛地帯では女房が事故死するらしいんだ。だからパーティーなんかに女房を連れて行くと、こっそり、再婚はいつですか、なんて聞かれちゃってね、弱ったよ」。

奥さんも先ごろ亡くなられたが。2・26事件(1936年2月26日}の総理官邸で岡田啓介総理と間違われて射殺された松尾大佐の長女だった。

「軍人として果たせなかった国家建設の夢を実際に政治に反映させてみたい。竹下登、加藤六月など若いのにいい奴がいますよ」

「私は相談には乗りますが、中曽根のブレインなんかでは断乎としてありません」

しばらくして外務大臣園田直が瀬島さんを「参謀格」に据えたため、瀬島さんは会社の仕事を投げ打って外務省に通ってきて下さった。

そうした事から秘書官退職後の私の身の振り方を真剣に心配してくださった。しかし、最近は年賀状も来なくなっていた。瀬島さんを否定的に捉えた共同通信社社会部『沈黙のファイル―「瀬島 龍三」とは何だったのか』に私の名前が登場したためと諦めていた。ご冥福を祈ります。
2007・09・04  (再掲)

◆本稿が掲載された2月18日(金)刊「頂門の一針」2185号の
卓見です。ご高覧ください。

◆<2185号 目次>
・小沢氏系16人が民主会派を離脱方針:古澤 襄
・瀬島さんの津軽海峡冬景色:渡部亮次郎
・民主化ドミノ、ついにリビアで暴動:宮崎正弘
・中国の軍拡で日米同盟が危ない!(1):古森義久
・崩壊しかねない医療現場:平井修一
・話 の 福 袋
・反     響
・身 辺 雑 記

◆本誌「頂門の一針」購読(無料)申し込み御希望の方は
下記のホームページで手続きして下さい。
 http://www.max.hi-ho.ne.jp/azur/ryojiro/chomon.htm



この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック