2011年03月07日

◆乃公出でずんば

渡部 亮次郎

だいこういでずんば、と読み、「このおれさまが出ないで、他の者に何ができるものかの意」(広辞苑)である。また乃公(だいこう)とは「汝の主君の意、我輩。おれさま。男子が自分自身を尊大にいう語、ともある。

最近は全く使われなくなった言葉だが、元総理大臣福田康夫さんの父上・福田赳夫さんが第67代総理大臣に就任するまでは「その乃公出でずんばの気を直さなきゃ、総理にはなれん」と支持者でさえ陰口をきいた。

しかし息子の康夫氏には良くも悪くも乃公意識が微塵も無い。赳夫氏はその強烈なエリート臭で仲間を集めたが、康夫氏はくれるといっても親父の作った派閥(町村派)を継ぐ気さえ無い。なお、引用の言葉は「乃公出でずんば蒼生を如何となす」。蒼生とは人民のこと。

何しろ秀才だった。福田 赳夫(ふくだ たけお、1905(明治38) 年1月14日―1995年(平成7年)7月5日)群馬県群馬郡金古町足門(現在の高崎市足門町)に父・福田善治(第20代金古町長)の次男として生まれた。

福田家は江戸時代には庄屋をつとめた地元の名門であった。小学校のころから神童の誉れ高く、旧制高崎中学を首席で卒業し、第一高等学校から東京帝国大学法学部へすすみ大蔵省(現財務省)に一番の成績で入省した。

官房長、銀行局長(このとき三島由紀夫の上司だった)を経て戦後、主計局長と進み、事務次官間違い無しと思われた1948(昭和23)年9月13日昭電疑獄との関連を疑われて逮捕される。10万円の収賄容疑だった。

後に無罪となるも、逮捕を機に大蔵省を退官、4年後の1952(昭和27)年10月、郷里から無所属で衆議院議員に初当選。議員としては先輩に中曽根康弘氏がいた。

やがて民主党入党、岸信介総理に目をかけられ、1958年6月、当選4回にして党政調会長に取り立てられる。翌1959年1月には党幹事長に就任。初入閣はそのあと1959年6月、農林水産大臣というのだからエリート意識は高まるばかり。

しかし岸内閣が日米安保条約の改訂を期に退陣して、大蔵省の先輩である池田勇人氏が政権を握るとこれに反発、坊秀男、田中龍夫、一万田尚登、倉石忠雄の各氏ら福田シンパを糾合し、「党風刷新連盟」を結成して池田氏に対抗した。これが後に福田派へと発展する。

反池田の大義名分は所得倍増、経済の高度成長論への反発だったが、周囲では「乃公意識」と見ていた。ところが冷や飯はたった3年、岸氏の弟佐藤栄作氏が政権に就くや再度重用され、1965年6月には大蔵大臣として大蔵省に錦を飾った。

大蔵大臣の前任者は佐藤派ながら小学校出の田中角栄氏。若い頃上越線の汽車の中でが初対面。佐藤内閣の約8年の間に2人は大蔵大臣と幹事長ポストを交互に勤めながら激しいライバルとなって行く。

田中氏は福田乃公ぶりが無かったなら総理総裁を目指さなかったかもしれない。加えて佐藤総理が福田氏を露骨に贔屓にするものだから、反骨精神がむくむくと頭を持ち上げ「一丁、やってやろうじゃねぇか」となった。

佐藤総理は沖縄返還を花道に引退する1年前の改造で、福田氏を外務大臣田中氏を通産大臣(現経済産業大臣)に据え,あからさまに福田氏を後継者扱いにした。

福田氏もまた「上善水の如し」を唱え、「禅譲」を信じた。強烈な乃公意識は、現金を湯水の如くばら撒いて人心を収攬する角栄式に露骨な嫌悪感を示したものだ。私は福田担当記者として、それを1年間、見続けた。自民党は乃公より人心収攬を選択した。

田中氏は政権を長く維持できなかった。それでもまだ党内は福田氏に政権は回さず、福田氏は三木政権を倒したあとも大平正芳氏と「政権2年」の密約を交わしてやっと67代目の椅子を手中にした。

しかもその密約を破って総裁再選に挑んだため大平氏にあえなく敗れた。「天の声にもたまには変な声まである」と悔しがるのを傍で聞いた。しかし、敗因は明らかに慢心であったのに「金権」などという造語をしてまで大平氏を怨み、遂には死に追いやった。

昔、河野一郎の子分だった園田直氏はポスト三木をめぐって、大平正芳氏の後盾になっていた田中角栄元首相の懐に飛び込み、三木の後継者は福田2年、その後は大平」という「大福密約」を成立させた。

その「功績」を盾に自らは福田内閣の初代官房長官に就任した。だがたった1年で追われ、外務大臣に横滑りさせられた。しかも福田首相は「密約」を反古にして総裁選に立候補。これには大平も田中も立腹。結果、田中はの大健闘で福田は敗れて官邸を後にした。

この経緯を私は園田外務大臣の秘書官として、つぶさに見聞した。園田氏は「会社でいえば福田さんは会長。おとなしく大平社長を支えていれば、再度政権を担うことも可能なのに」とぼやいていた。

それがあたかも「予言」になったように大平氏は急死した。予ねて糖尿病を患っていた大平氏、心臓が弱っていた。そこを福田氏が露骨に足を引っ張るものだから、ストレスにより、心筋梗塞を起こし、あっけなく逝去したのだった。

後継者は鈴木善幸氏。福田という声は何処からも上がらなかった。まさに「乃公出ずんば」裏目に出た典型的な例として歴史に残ったのだ。

註:乃公出でずんば蒼生を如何とす=出仕を拒み続けてた晋の謝安が官に就いたとき、ある人が口を合わせて「安石(謝安)不肯出、将如蒼生何」と言ったものだが、今度は人民があなたをどうすればよいのでしょう、とからかったのに対し、謝安は笑って答えなかったという「世説新語―排調」に見える故事によると思われる。[小学館編 故事俗信 こ
とわざ大辞典](2006・07・21)加筆:2011・3・4



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