2011年03月11日

◆遊郭を結んだ道

渡部 亮次郎

私の居住区(東京・江東区)と隣の墨田区を南北貫くように片側1車線の道路があり「大門通り=おおもんどおり」と呼ぶ。

以前、といっても昭和33(1958)年3月31日まで存在した遊郭「吉原」と「洲崎」のそれぞれの大門を結ぶ通りの名残だという。遊郭は無くなったが。道路はとても混む。

吉原 よしわら

江戸時代以来つづいていた東京の遊郭地。江戸幕府は集娼制(しゆうしようせい)を確立するため,1617 (元和3) 年3月に従来江戸市中数ヵ所に散在していた遊女屋を集めて葺屋町(現,中央区日本橋人形町付近)に傾城(けいせい)町(遊郭)をつくることを許可した。

それまでは、いまは高級住宅地と威張って?いる千代田区番町が遊郭の町だった。なぜなら徳川幕府の城を守る(番をする)侍(兵)は地方の藩からの単身赴任者だった。

彼らの遊び宿としての遊郭が番町に出来たのは当然だった。番兵の町だから番町。頭(今なら警視総監)は服部半蔵。皇居に半蔵門あるはその名残。借名して地下鉄半蔵門線と駅あり。

新しく公認遊郭を造ることになった、その土地は埋立地で,ヨシ(アシ)などが繁茂していたので葭原(よしわら)と呼ばれ,後に縁起のよい字にかえて〈吉原〉と称した。

ここに江戸町と京町を建設するのに約1年半を費やし,1618年11月に一斉開業し,数年後に京町2丁目(新町ともいう)と角町(すみちよう)とを追加建設した。41年(寛永18)以後夜業を禁じられ,そのため一時私娼(湯女(ゆな))が勢いを得ていた。

吉原は江戸時代、唯一、幕府公認の遊郭だったわけだが、当時は他に5街道の入り口のうち江戸四宿と言われた品川、内藤新宿、板橋、千住にも遊里があった。明治になるとこれに根津が加わって大繁盛をしていた。

根津は今で言う東京都文京区北東部。上野・本郷両台地間の根津谷(藍染(あいぞめ)川の谷)に位置する低地部の地名。台地の根(山麓)にある津(舟着場)の意が地名の由来とする説もある。

1652 (承応1) 年甲府宰相徳川綱重の下屋敷の地となる。1706 (宝永3) 年同家の産土(うぶすな)神の根津権現(根津神社)が駒込千駄木から移転して以来,根津と称するようになった。

同社は文明年中(1469‐87)太田道灌の再興と伝えるが,当地への移転にともない,その門前地には門前町屋2町(根津門前町,根津社地門前)と西丸奥坊主らの拝領町屋敷(根津宮永町)がつくられ,やがて江戸有数の繁華な岡場所(私娼街)となった。

この岡場所は1842 (天保13) 年天保の改革によって撤去され,新吉原に移転するが,68 (明治1) 年に復活し,明治18年には遊女943人がいた。しかし近くに東京帝国大学ができることになり1888年に埋立地の洲崎弁天町へ移され、深川区(現江東区)に編入された。


こには品川の業者も移転してきた。根津からの移転業者は83軒だったが、明治42年には業者160軒、従業婦1700人。大正10年には業者277軒、従業婦2112人と記録されている。

敗戦後「洲崎パラダイス」となってからの昭和29年にはカフェー220軒、従業婦800人と言われたが、昭和33年4月1日の売春防止法の施行によってすべてが廃止され、町名も「東陽町」などと気取って、地下鉄の駅が出来、区役所が建っている。

文豪永井荷風は日記「断腸亭日乗」で昭和6年11月27日に「・・・遠く堺野のはづれに洲崎遊郭と思しき燈火を目あてに、溝渠に沿びたる道を辿り、漸くにして市内電車の線路に出でたり。豊住町とやらいへる停留場より電車に乗る。洲崎大門前に至るに燦然たる商店の燈火昼の如し」とある。

根津は1878年の郡区町村編制法によって,根津地域に本郷,湯島など周辺地域を合わせ東京府本郷区が成立した。1947年本郷区と小石川区が合併し文京区となる。現在は不忍(しのばず)通りと言問(こととい)通りが商店街であるほかは,住宅地が大半を占める。

一方の吉原である。56年(明暦2)に本所あるいは浅草山谷(さんや)のいずれかへ移転を命じられた。これは江戸の市街の発展に伴い,かつての葭原が商業地帯に近接した繁華地となったための政策の見直しであった。

翌57年の明暦大火による類焼が移転を決定的とし,業者らは浅草山谷(現、台東区千束4丁目)の地を選び,同年8月に移転を完了した。遊郭の無くなった旧吉原は人形師らが多く住むようになったので人形町となって澄ましている。

大門は吉原の玄関で,夜10時から翌朝までは大戸をしめ,くぐり門を通行させた。その他の出入口は非常口で平常は開放されなかったが,周囲のどぶ(〈おはぐろどぶ〉と俗称)には臨時に使用する〈はね橋〉が用意されていた。

大門の内側左右には番所,会所があって,それぞれ幕府と吉原町の役人が詰めて郭内の取締りにあたった。つまり人身売買で売られてきた遊女が逃げないようにである。とにかく、こうして大門通りが吉原と洲崎を結んだのである。

昭和9年ごろには「吉原大名、洲崎半纏」と言われ、1日と15日の職人たちの給料日には「宵越しの金は持たねぇ」人種でにぎわったそうだ。

ものの本によると昭和30年代、洲崎の玉代はショート300〜500円、時間700〜1000円、泊リ1000〜2000円だったそうだ。野坂昭如氏によると新宿2丁目では300円、500円、1500円だったとか。

3畳間で月5000円の暮らしでは吉原は聞いたことも無いし、洲崎も知らない。新宿はたまに焼酎を呷りに立ち寄る程度。今を考えると、実に品行方正は単なる貧乏だったに過ぎない。

(東京紅団ホームページhttp://www.tokyo-kurenaidan.com/

と平凡社世界大百科事典(C)株式会社日立システムアンドサービスを参照

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