2011年03月15日

◆木津川だより「泉津と周辺の散策」@

〜古代大和への玄関港(泉津)編〜

白井繁夫
 
木津川の堤には、木津川市の代表的駅『JR木津駅』から北の方に向かって歩きますと、十数分程で着きます。(木津川:上流の水源地三重県青山高原、鈴鹿山脈からと名張市の青連寺湖からの名張川も包含して淀川の三川合流地点の八幡市まで延長約90Kmの一級河川)。

今回は、明治29年の木津駅開業による鉄道交通発達以前の水上交通で栄えた「木津の浜と、その周辺の文物『泉津と上津(こうづ)遺跡(いせき)や安福寺:平重衡(たいらのしげひら)の十三重石塔.不成(ならづの)柿(かき)』」について、地元の伝承も織り交ぜて散策します。

まず木津駅の西口から北へ約十分強歩くと「安福寺」につきます。

「安福寺」は、JRの鉄道建設に因って線路のすぐ東側のお寺となりましたが、平重衡が斬首された時のもともとの首洗い池は線路の下に没しました。(現在は線路で分断されて西側に、不成柿:成らずの柿:の処にあります)。

安福寺の山門をくぐると左手に十三重の石塔が有ります。この「石塔が平重衡」の碑です。

平重衡(平清盛の五男)は、治承四年(1180)に源氏に味方した東大寺、興福寺等を焼き討ちした平家総大将として悪名が高いですが、(伝承では、夜半に暖をとる焚火が強風に煽られて南都が大火になったという説も)その後、一の谷の戦いで源氏に敗れ虜囚となり、鎌倉の源頼朝のもとに送られました。

しかし南都衆徒の強い要請で、鎌倉から木津の地まで運ばれ、元暦二年(1185)ここ木津川の河原で斬首されたのです。

その際、道中で面会した妻に自身の髪を渡したとか、頼朝が武将の中の武将として称えたとの話があります。また重衡が斬首された時の引導仏(阿弥陀如来像)が「安福寺」の本堂(哀堂(あわんどう))に祀られています。重衡が最後に食べた柿の種を地元の人々が植え大事に育てたといわれますが、その柿は実を付けなかったため『不成柿』等と呼ばれてきました。

しかし、ときが経ち現在の柿の木は実がなっています。(哀堂:あわれ堂→地元の呼称:あわんどう)といっています。

「安福寺」の東隣の「御霊神社」の祭神は、藤原広嗣(ひろつぐ)、早良(さわら)親王、伊予親王ですが、非業の死を遂げた広嗣の御霊を鎮めると云うより、今は「木津の鬼門除け、災害.厄除けの神社」としてお参りする人が多くなってきました。

江戸時代の木津川は七年に一回の割で水害をもたらしており、特に正徳二年(1712)の大洪水の時はこの神社の鳥居の貫(ぬき)木(ぎ)まで(約4m強)水に浸かったと云われています。

さてここから本題の、「大和の北の玄関口『泉津』の話」に入りましょう。

「御霊神社」の裏側すぐの処に上津(こうづ)遺跡(いせき)公園が有ります。上津遺跡は、泉津(木津川の南岸、東西約2.6km)のほんの一部ですが、神社近隣の宅地開発の時、(昭和51年からの発掘調査において)初めて発見されたものです。

その後調査は、平成21年の第9次まで続きますが、何と日用の雑土器から祭祀用器、交易の文物、また建物の柱跡や墨書土器、役人の遺物等が出土し、木津に「官の役所」が有ったと性格付けられました。

上津遺跡は、泉津のごく一部だけしか発掘されていませんが、古代の藤原京、平城京の建設の為多くの木材が、この木津に集積されていました。(東大寺や興福寺ももちろん木津に木屋所を設置していました)。

上津遺跡から国道24号線を越えて木津川の堤を西(下流)へ約十分余歩くと、川喜(割烹
料亭)に着きます。(この料亭は江戸時代川口屋喜兵衛と云われ、港と奈良街道筋の交差点の料理旅館として、昔から数多の有名な人々が宿泊したと云われています)。

昭和28年の南山城地区の大水害でここ川喜から対岸へ架かっていた旧木津の橋は流されました。(R24号線の泉大橋と別)

古の天平時代、行基が宗教活動も兼ねて布施屋を設け、ここと対岸の泉橋寺まで木津川に掛けた橋は、この辺りよりもう少し上流とも云われています。近代では明治10年、明治天皇が京都から奈良へ行幸された時、ここの橋が流されていたので対岸からここまで川船を繋いで橋を造ったと云われています。

泉津(古代は泉津(いずみのつ)から江戸時代は木津の浜と云われました、古代から上津道、中津道、下津道を利用する大和への玄関口)は、「木津川の六カ浜」の一つですが、飛鳥時代から近江の田上山の檜を宇治川経由で藤原宮造営用として運び、特に平城京建設、天平の恭(く)仁(に)京(きょう)造営の時は、ここに役所の施設や大仏造立のための東大寺木屋所などが設置されたのです。

さらに平城京と泉津を繋ぐ官道沿いには、全国から集めた人々によって最先端の瓦窯群も建設されて大変な賑わいであったと伝えられています。

たしかに、交通の要衝としてまた大和の玄関として人・物が集まり、渡来人の往来も有るなど、当時としては最高の文化都市でしたが、そんな重要な拠点であった木津川も、流石に洪水には悩まされたようです。これは次会の中で触れたいと思います(@−終)        

次回は、東西2.6kmの泉津の中ツ道(奈良街道)の出発地周辺(和泉式部の墓、重文の木津惣墓五輪塔)、下ツ道(歌姫街道)の出発地周辺(吐師の浜、重文の相楽神社など)の散策に移ります。
<郷土愛好家>

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