2011年03月21日

◆国立公園指定記念日

渡部 亮次郎

日本に環境省の出来るきっかけを作ったのは厚生大臣園田直(そのだ すなお=故人)である。

水俣病の患者を診察してきた熊本大学医学部が、原因は新日本窒素肥料(のちのチッソ)水俣工場(熊本県水俣市)の排水中のメチル水銀と発表したのが1959年(昭和34)だった。岸信介内閣である。

だが以後も歴代内閣は企業寄りの姿勢をとり続け問題の解決を先のばしにし続けた。これを処断したのが園田厚生大臣である。閣内の空気は認定躊躇だったが、水俣の地元を選挙区に抱えながら、あえて認定に踏み切った。1968(昭和43)年のことだった「水俣の評判を落とした」として地元の反発を食い、選挙の票を減らされた。

この問題がきっかけになって、政府関係者の間にも「環境」と言う概念が広まり、1971年に環境庁が出来、厚生省の扱ってきた公園行政が環境庁に移った。皇居前広場の管轄も環境庁となった。

ところで、世界最初の国立公園は、アメリカのモンタナ、ワイオミング、アイダホ各州にまたがるイエローストーン国立公園で、1872年に連邦議会の指定を受けた。

ただし、「国立公園」という名称が初めて用いられたのは、79年にオーストラリアのニューサウスウェールズ州にもうけられた王立国立公園(ロイヤル・ナショナル・パーク)である。

1880年代になると、国立公園という概念がニュージーランドやカナダにもつたわり、これら4カ国でさらにいくつかの地域が国立公園に指定された。

ヨーロッパ初の国立公園がスウェーデンに設置されたのは1909年。30年代には日本、メキシコ、旧ソ連、複数のイギリス植民地に、さらに50年代にはイギリス、フランス、その他のヨーロッパ諸国にも生まれた。

その後、インド、ブラジル、オーストラリア、ニュージーランドを中心に、多数の国立公園およびそれに準じた地域がもうけられている。

今日、「国立公園」という言葉は、自然保護のために設けられた小さな区域についても使われ、これらの指定地域では保護基準がさほど厳格でない場合も多い。

スコットランド、アイルランドの森林公園、アメリカ国立公園局の運営する国立野生保護区、国立記念物、カナダ、アメリカ、オーストラリアの州立公園などがこれに該当する。

日本で国立公園誕生のきっかけとなったのは、富士山一帯を国立公園にしようとする運動からであった。1911 (明治44)年、この案が第27回帝国議会に「国設大公園設置ニ関スル建議案」として提出された。

後日、この案は議会で採択されたものの、同時期に提出されていた「史蹟及ビ天然記念物保存ニ関スル建議案」の方が優先され、20 (大正9) 年になってようやく国立公園法制定の準備が開始された。

候補地の綿密な調査と検討が数年間にわたって行われ、31 (昭和6) 年にやっと「国立公園法」が制定された。

これにより、1934(昭和9)年3月16日には瀬戸内海、雲仙、霧島の3国立公園が日本ではじめて指定された。指定したのは内務省。同年末には阿寒、大雪山、日光、中部山岳、阿蘇の5公園が加わり、さらに36年に十和田、富士箱根、吉野熊野、大山の4公園も加わって、公園数は増加の一途をたどった。

第2次大戦後、マッカーサーの命令で内務省は分割され、公園行政は先に発足していた厚生省に移された。1946(昭和21)年に伊勢志摩が国立公園に指定されると、新しい国立公園が次々に誕生し、48年には厚生省(現、厚生労働省)の中に国立公園部が設置された。

その関係で厚生省内には昭和56年ごろ、国立公園を有名画家に描かせた絵画が幹部の部屋を飾っていたが、大臣室には全くなかった。所詮、大臣はやがて去る「お客さん」だからである。

57(昭和32)年、「国立公園法」が見直され、「自然公園法」として生まれかわった。法的に内容も整備、体系化され、国立公園と並んで国定公園と都道府県立自然公園の位置付けが明確になった。

また、71年に環境庁(2001年に環境省)が設置されると、部内に自然保護局が設置され、従来、厚生省がおこなってきた自然公園行政と農林省の鳥獣保護行政が統一され、新たな自然保護行政が展開されている。

その後、自然公園法は生物の多様性や生態系の保全などの内容をもりこんだ改正がおこなわれ、2003年(平成15)4月から施行されている。

2003年3月末現在、全国に28の国立公園があり、その総面積は国土の5%を超える205万6556haにのぼる。上記の国立公園の中には、指定後に指定地域が拡大されたものもあるが、それ以外の国立公園をあげると、次のとおりである。

知床、支笏洞爺、釧路湿原、利尻礼文サロベツ、陸中海岸、磐梯朝日、上信越高原、南アルプス、秩父多摩甲斐、小笠原、白山、山陰海岸、足摺宇和海、西海、西表。国立公園指定記念日が3月16日である。

園田さんは、その後、水俣病認定で財界の反発を買い、永らく無役を余儀なくされた。しかし、嘗ての宿敵田中角栄と取引して福田赳夫内閣を樹立、官房長官、外務大臣を務めた。

その後、鈴木善幸内閣で再び厚生大臣を務め、今度は中国残留日本人孤児の帰国に初めて決断を下したが、間もなく糖尿病により全盲となり、70歳の4月2日、腎不全のためこの世を去った。


この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック