2011年03月29日

◆木津川だより「泉津と周辺の散策」A

〜古代大和への玄関港「泉津」〜
白井繁夫
「泉津」とは何処でしょうか、簡単なイラストでも掲載して下さい。木津の木津川へ行くと、港が良く解りますか?等の問い合わせがありました。

そこでくどいかも知れませんが、もう少し「泉津」について記述して見ました。

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A)泉津(いづみのつ)は東西2.6kmにおよぶ大河川港で古代の呼称です。

江戸時代幕府が認めた木津川の六カ浜『宇治の一口(いもあらい)から笠置(かさぎ)の浜』では、上流の上津(こうづ)から木津(こづ)の浜、下流は吐師(はぜ)の浜までを含みます。

『木津川』の呼称にまつわる記紀の物語ですが、各地の王との覇権を治め、大和王朝の確立を目指した崇神天皇の時代、四道将軍の大毘古命(おおびこのみこと)と謀叛人?建波邇安王(たけはにやすのみこと.武埴安彦)が和訶羅川(木津川)で相挑み戦った地名伝説から、『いどみかわ→いずみかわ』泉川と呼ばれるようになったと云われています。

元明天皇の平城遷都後、「泉津」から大和への三本の幹道(上津、中津、下津道)は官道として整備されました。(木津の地名:古代は『泉津』イヅミノツ、中世『泉木津』イヅミノコヅ、近世は『木津』キヅと呼ばれたと云われています。)


そこで、手書きのメージ図(イラスト。実寸縮小では有りません)で説明致します。
@ :木津川から古代奈良へ(泉津イヅミノツ)からの上津道(上ツ道)○イ
A :JR木津駅から木津川まで北へ徒歩十数分  B:平城京跡から木津川(吐師の浜)をむすぶ下津道(歌姫街道) ○4:東大寺 D:JR奈良 E:西大寺  ○ロ:泉津の中津道(奈良街道)、木津の浜から大和への道 ○7恭仁京跡(クニキョウ)
B) 木津川の港

「泉津」は飛鳥、奈良時代から大和への木材など建築用材から官の租税などいろんな文物を取り扱って栄えてきましたが、川に憑き物の洪水にも苦しみました。

正徳二年(1712)の木津川沿岸大洪水は特に酷かったと云い伝えられています。また享和2年(1802)の洪水で川口屋(川喜)の家屋が、祝園(約4km下流)まで流されたと云われています。昭和28年の南山城の大水害も前回述べたごとく川喜(割烹料亭)の信号の処から対岸に架かっていた橋が流されました。(橋げたの跡は川の中に現在も有ります。)

その後、洪水対策を兼ねた治水事業として木津川の上流にダム建設が始まり1964年完成の高山ダム(貯水量5680万トン)から1998年完成の比奈知ダム(2080万トン)まで現在五つのダムが有り、約1.2億トン(10万トンのタンカーに換算)1千隻強を水量調整できますので、現在は洪水から解放されています。

しかし、木津の浜(中ツ道)、吐師の浜(下ツ道)の港の面影は薄れました。

五つのダム完成後、木津川の流れは穏やかになりましたが水量も減少しました。また陸上交通(鉄道、車輌)の発展とともに、水運利用はもはや考えられない状態です。

木津の浜のイメージ図(イラスト)です(中ツ道周辺)

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@ JR奈良線の鉄橋、  
A R24号(泉大橋)
B 行基が架けた橋(推定した場所です)
C 昭和28年に流れた橋
D 小川(港の掘割に通じる)
E 川喜(交差点の信号、奈良街道 中ツ道と対岸への旧橋)
F 福祉センター(中之島)
G 木津川護岸道路(新しい道)
(Fの中之島が昔の港の作業所、Dの延長の掘割に川の本流を避けて船を流れの無いここに着けたと思います)。
H旧の護岸道路です。(Eの交差点を通る道○9が元々の護岸道です。)
今回はご質問に少しでもお役にたてばと思っておりますが、如何だったでしょうか。次回は「泉津の中津道、下津道の出発点の周辺の散策」を綴りたいと思って居ります。
(郷土愛好家)
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