2011年04月14日

◆人材発掘怠り2世で沈没自民党

渡部亮次郎
 
昭和39(1964年7月10日、内閣総理大臣池田勇人(はやと)が自民党総裁に3選され、偶然だが、この日から私の政治記者修業が始まった。

池田首相に終始くっつくだけの池田番記者をする一方、自民党内 No2の実力を誇示する河野一郎無任所大臣をも担当。彼が、折からの東京オリンピックと東京都の水不足問題担当大臣に指名されたため、オリンピックと飲み水に詳しくなった。

首相池田は当時の大蔵官僚。佐藤栄作とともに、吉田首相に寵愛され、占領下の日本政治の舵取りをしながら成長した。佐藤の実兄が安保退陣をした首相岸信介。兄弟とも官僚出身。栄作は運輸事務次官から政界入り。

一方の岸は東大に残れと要請されたほどの秀才。当時の商工省に入り、満州国に乗り込んで辣腕を振るった。対する河野一郎は朝日新聞記者から政界入りした、所謂党人派だった。

こうした中で新潟の小学校上がりの若手政治家が、密かに牙を研いでいた。佐藤の派閥に属しながら、池田派の幹部で大蔵官僚上がりの大平正芳を通じて池田に取り入り、遂に大蔵大臣に上り詰める。

田中はノモンハン事件に出征、その後、東京で土建会社を興して蓄財、それを翳して30前に代議士となる。神楽坂の芸者を引かし男児2人を設けた。真紀子は本妻の子である。

このように昭和50年ごろまでの自民党は多士済々だった。殆ど男性ばかりで、兵役経験者が多かった。「死」に直面し、生きながらえた人物が多かった。度胸が据わっていた。

たとえば衆院議員当選9回で初入閣する九州天草出身の園田直(すなお)は、いわゆる「特攻隊」の生き残り。「弾は逃げれば命中する」との信念の持ち主。あらゆる困難を買って出た。日米安保は再軍備の邪魔になると反対投票、除名されて入閣が遅れた。

園田とともに河野派に属した中曽根康弘は内務官僚から海軍主計官を経て政界入り。若くして岸内閣に入閣。その後鳴かず飛ばずの期間が長くなった為、川島正次郎に接近。河野の怒りに触れ、河野が「明日、中曽根を派閥から除名する」と私にいった。

その当日に河野が腹部大動脈瘤破裂で倒れた為、不名誉を免れた。あの時河野が死ななければ政権獲得、大勲位はもらえなかったろう。

こうした人たちが自民党を動かしたわけだが、殆どすべての政治家が息子や縁者を後継者にしている。池田は娘婿を後継者にした。佐藤は次男を、河野も次男たる洋平を指名はしなかったが、結果はそうなった。

岸は女婿たる安倍晋太郎に夢を託して「道ならし」。岸の「安倍狂い」とまで言われた。自民党の将来よりも安倍の出世が大事だった。

園田は「子供を後継者にしない」と高言していたが、死んで見ると未亡人と先妻の子たる次男が後継を争うという見世物を演じた。

忘れてならない人物に大野伴睦 (おおの ばんぼく =ともちか )がいる。

東京市会議員を経て衆議院議員となり、衆議院議長、北海道開発庁長官、日本自由党幹事長、自民党副総裁を務めた。没後、従二位勲一等旭日桐花大綬章。

典型的な党人政治家として知られ、「伴ちゃん」の愛称で親しまれた。また、「政治は義理と人情だ」「猿は木から落ちても猿だが、代議士は選挙に落ちればただの人だ」等の格言を残したことでも知られる 。出典フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

しかし、この人の遺児も議員になり2世議員の恥を晒した。

ナポレオン時代のフランスの政治家・ジョゼフ・フーシェに例えられ「江戸前フーシェ」や、「寝業師」、「道中師」、「おとぼけ正次郎」と渾名されたりもした川島正次郎は新聞記者から東京市の役人。

それから政界入りし、岸信介のもとで幹事長。佐藤栄作政権では長く副総裁だったが、佐藤が後継首相に福田赳夫を指名しようとしているのを阻止。党人派田中政権の樹立に献身した。子がなかったので二世は作らなかった。

このようにして自民党は新しい血液の混入を拒否、長期政権の地盤を固めていった。

したがって政界入りを目論む者は自民党に背を向けざるを得なかった。特に官僚は自民党を早くから見限った。

松下幸之助が政経塾を作って、結果的に野心家ばかりを養成したのは彼のたった一つの汚点だと思うが、それにしても、その卒業者の悉くが現在の民主党に固まる結果となったのは、厚い壁をたてて彼らを拒否した自民党の罪である。

その壁には古い因習によって人間を差別する壁もあった。思想的に自民党員足るべき資格者がミスミス民主党に走らざるを得なかった例を数多知っている。

こうして自民党は二世、三世議員だらけになり新しい知性の感じられない政党に成り果てた。小泉政権はまだしも安倍晋三、福田康夫、挙句は漢字も読めない麻生太郎で遂に倒産と相成った。

ところで「子供は俺の地位を継ぐべきでない」と高言して死んだ園田の後を息子が継ぐ結果を近くで見ていたが、あろうことか後援会の幹部による会の主導権争いが決定的に影響していた。

幹部の中には思想信条・政策において後継者に相応しい地方議員はいたが、後援会の主導権を失いたくない幹部は、敢えて息子を指名することによって大方の賛同を得、有力県会議員の中央政界進出を封じた。

二世、三世議員の登場にはこうした例が多いのでは無いか。

いずれにしろ、自民党は議員志望者を育成し、党の血液を入れ替える荒仕事を成就させなければ、民主党から次期総選挙で政権を奪回できたにしても、再度奪い返される日は来る。(文中敬称略)
2011・4・9
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