2011年04月28日

◆読売正力は原子力の父

渡部 亮次郎

ウィキペディアに依れば1945年8月、第2次世界大戦敗戦後、日本では連合国から原子力に関する研究が全面的に禁止された。しかし1952年4月にサンフランシスコ講和条約が発効したため、原子力研究は解禁されることとなった。

日本における原子力発電は、1954(昭和29)年3月に当時改進党に所属していた中曽根康弘、稲葉修、齋藤憲三、川崎秀二の各氏により原子力研究開発予算が国会に提出されたことがその起点とされている。この時の予算2億3500万円は、ウラン235にちなんだものであった。

中曽根氏は1954(昭和29)年3月、日本で初めて「原子力予算」を国会に提出し成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。

1959(昭和34)年 第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として入閣。原子力委員会の委員長に就任。

1955昭和30)年12月19日に原子力基本法が成立し、原子力利用の大綱が定められた。この時に定められた方針が「民主・自主・公開」の「原子力三原則」であった。

この頃、筆者は大学2年生。原子力の平和利用など関心も知識も全く無かった。

大正13(1924)年1月 虎ノ門事件を防げなかった責任を問われ正力氏は警視庁を懲戒免官。直後、摂政宮(のちの昭和天皇)婚礼により恩赦。読売新聞の経営権を買収、社長に就任。

この買収資金10万円を呉れたのは内務大臣後藤新平。後藤は自宅を担保に借金して渡した。後藤の姉の婚家先「椎名家」に養子入りしたのが、椎名悦三郎。昔、商工省で金の岸(信介)いぶし銀の椎名といわれたもの
だ。

正力松太郎氏は警察官僚から読売新聞社の経営者として、同新聞の部数拡大に成功し、「読売中興の祖」として大正力(だいしょうりき)と呼ばれる。

日本に於けるそれぞれの導入を推進したことで、プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力の父とも呼ばれる。

駒澤大学が上祖師谷グラウンド(野球部合宿所、駒澤大学球場)を購入する際に尽力したことを顕彰して、駒澤大学の開校80周年(1962年)の式典において、最初の名誉博士号が授与された。

週刊新潮2006年2月16日号で、戦犯不起訴で巣鴨プリズン出獄後は正力がCIAの意向に従って行動していたことを早稲田大学教授の有馬哲夫がアメリカ国立公文書記録管理局によって公開された外交文書(メリーランド州の同局新館に保管されている)を基に明らかにし、反響を呼んだ。

アメリカ中央情報局(CIA)と日本へのテレビの導入と原子力発電の導入で利害が一致していたので協力し合い、その結果、「podam」、「pojacpot-1」というコードネームを与えられ、これらの件に関する大量のファイルがアメリカ国立第二公文書館に残ることになった。

CIAに正力松太郎を推薦したのは、カール・ムント米上院議員だったという。

原子力基本法成立を受けて1956(昭和31年)1月1日に原子力委員会が設置され、初代の委員長は読売新聞社社主でもあった正力松太郎氏であった。

<1954(昭和29)年3月、日本で初めて「原子力予算」を国会に提出し成立させる。正力松太郎にこの頃近づき、正力派結成の参謀格として走り回る。共に政界における原発推進の両軸となる。

正力氏は翌1957年4月29日に原子力平和利用懇談会を立ち上げ、さらに同年5月19日に発足した科学技術庁の初代長官となり、原子力の日本への導入に大きな影響力を発揮した。

1956年6月に日本原子力研究所、現、独立行政法人日本原子力研究開発機構が特殊法人として設立され、研究所が茨城県那珂郡東海村に設置された。これ以降東海村は日本の原子力研究の中心地となっていく。

1957(昭和32)年11月1日には、電気事業連合会加盟の9電力会社および電源開発の出資により日本原子力発電株式会社が設立された。

1959年(昭和34年)第2次岸内閣改造内閣の科学技術庁長官として中曽根氏が入閣。原子力委員会の委員長に就任。

日本で最初の原子力発電が行われたのは1963(昭和38)年10月26日で、東海村に建設された実験炉であるJPDRが初発電を行った。これを記念して毎年10月26日は原子力の日となっている。

日本に初めて設立された商用原子力発電所は同じく東海村に建設された東海発電所であり、運営主体は日本原子力発電である。

原子炉の種類は世界最初に実用化されたイギリス製の黒鉛減速炭酸ガス冷却型原子炉であった。

しかし経済性等の問題によりガス冷却炉はこれ1基にとどまり、後に導入される商用発電炉はすべて軽水炉であった。

近年は老朽化で運転を終えた原子力発電所の処置の問題に加え、二酸化炭素排出削減策として既存原子力発電所の延命の方針が打ち出されている。

2010年3月に営業運転期間が40年に達した敦賀発電所1号機をはじめ、長期運転を行う原子炉が増加する見込みである事から、これらの安全性の維持が課題となっている。

そうしたところをまるで狙ったように2011年3月11日、東日本巨大地震と巨大津波が襲ってきたのだ。

多分福島第一原子力発電所の原子炉6基は、東日本大震災の被害で6基とも廃炉になる可能性がある。

■虎ノ門事件(とらのもんじけん)=1923年(大正12年)12月27日に、虎ノ門外において皇太子・摂政宮裕仁親王(のちの昭和天皇)が難波大助に狙撃された事件。

摂政として第48通常議会の開院式に出席するため、自動車で貴族院へ向かっていた皇太子に、虎ノ門外で群衆の中にいた難波が接近し、ステッキ仕込み式の散弾銃で狙撃した。銃弾は車の窓ガラスを破り、皇太子には命中しなかったが、同乗していた侍従長・入江為守が軽傷を負った。

難波はのちに大逆罪で死刑判決を受けて死刑執行された。この警護責任を取り、警視総監・湯浅倉平と警視庁警務部長の正力松太郎が懲戒免官になった。出典(「ウィキペディア」)2011・4・25  


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