渡邊好造
大学在学中の約50年前のことだが、M新聞記者を永年経験された方の週1回1時間半の4回集中講義「新聞学」を受講したことがある。
その講義の評価は、論文提出であった。
テーマは「新聞の責任」で、中味は自由。後で分ったことだが自分の意見が述べられていれば、たった一行だけでも優良可の最高合格点”優”が与えられた。
この時筆者が提出したのは、「記事は客観的に記述するのが新聞の責任」であった。
記事の書き方に、記者個人の考えへ誘導しようとするかのような書き方は気に入らない、といった内容である。
例えば記事のこんな結びの書き方―。
1) 、、、今後各方面の批判を呼びそうだ。
2) 、、、この件論議を巻き起こすに違いない。
3) 、、、といった狙いがある、との見方がある。
4) 、、、今後を占う意味で注目される事態だ。
5) 、、、といった点は当事者にとって最大の難問になる。
6) 、、、この結果は今後の行方にも影響しそうだ。
7) 、、、より一層の責任が問われる。
8) 、、、といった声が多く、このままだと一波乱ありそうだ。
9) 、、、など事態の悪化は避けられそうにない。
10) 、、、予想以上に厳しい状況に追い込まれている。
といった表現の仕方だ。
客観性がなく、なんの根拠も示さずにまるで、世論がその方向に向かっているかのような記事の結び方はケシカラン、という他はない。
改めて50年前のことを思い出しながら最近の新聞を読んでみると、今もこうした表現の仕方は変っていないことに気づかされる。
1)〜10)のような見解には根拠が必要なのに、どう読んでも記者個人の意見なのではないかと思わせる場合がある。
社会面や経済面でも散見するが、納得のいかないケースは政治面に多い。
こうした気になる記事の書き方は未だに残っていて、上から目線で読者を馬鹿にしているように感じる。
新聞は週刊誌の視点と同じであってはならない。
当り前のことだが、記事内容は客観的な論拠を示すことが肝要で、もし記者個人の意見を述べ、世論を誘導したいなら氏名を明記したそれなりのコーナーを設けるか、”社説”として掲載すべきではないか。(完)