2011年05月22日

◆糖尿闘病体験と終末期

渡部 亮次郎

48歳のとき、2型糖尿病を宣告された。如何なる治療法もなく放置すれば健常者より、10年は確実に早く死ぬという宣告。75歳で今生きているのはインシュリン注射のお蔭。

結論から言うと、母親の血族に糖尿病患者が多く、若くして卒中で死んだ人、その長女は失明の後死亡。その弟は存命中なるも闘病中。

母の姉の子供たちだから従姉兄だ。要するに糖尿病のDNAが私たち兄弟に遺伝。それが中年になって肥満と暴飲暴食を切っ掛けとして発症したのだ。これを2型という。

4つ歳の離れている兄は郷里秋田の地元紙の記者時代、30代で既に発症していた。

また、私が秘書官として外務大臣や厚生大臣時代に仕えた園田直(すなお)さんも30代後半、肥満がきっかけの2型患者。全く治療しないまま70歳、腎不全で死亡した。

その頃の私はまだ発症していないし、自分が糖尿病にかかりやすいDNAを所持しているという認識もない。大臣の腎機能が低下して、鍼師が「大臣のは糖尿病から来た腎虚ですからねえ」と言う科白を聞き流していた。

大臣は辞任後、腎臓が悪くなると、視力が急速に低下。腎臓が機能しなくなったので人工透析を始めた。69歳。「人工透析患者は数年しか生きない」と厚生省で役人から聞いていたから、あろうことか透析開始を遅らせた。その分、腎臓は悪くなっていた。

厚生大臣は初入閣(佐藤栄作内閣)の時と、鈴木善幸内閣の時と2回勤めたが、2度目の時、かねて糖尿病患者団体から陳情されていた

患者のインシュリン自己注射を許可した。80年ぶりの快挙だった。しかし、自らはその恩恵に全く浴することなく盲目で死亡した。

私が発症したのは園田さんの死後まもなくであった。食後、口の中が粘つくので検査したら「立派な糖尿病」発症直後だった。「伝染したのかな」と思ったものだ。

私の治療は、当面、食事制限と散歩15分と決った。東京・港区赤羽橋の済生会中央病院の「糖尿外来」に月に1度通って経過を見るというものだった。しかし私より若い医者は「もっと血糖値を下げないと、どうなっても私は知りませんよ」と脅すばかり。

済生会は明治天皇の御下賜金でできた糖尿病の病院である。明治天皇は糖尿病や脚気を患われた。脚気は麦や豚肉を食べて治ったが糖尿病は日本では全く研究が進んでいなかった。天皇の直接の死因は腎不全だったが、その原因は糖尿病だった。

そこでお隠れになった後、御下賜金により作られて病院が済生会中央病院。

患者だって血糖値を下げようと懸命なのに、下がらない。何が欠陥なんだろうと相談に乗ってくれればいいのに「わたしゃ知らないよ」と言う態度。喧嘩して通院をやめた。50歳だった。

事情があって離婚した。それまで住んでいた国立から千葉に近い江戸川区葛西の賃貸アパートに移り住んだ。新しい妻には病気の事は話し、散歩も継続したが通院は再開しなかった。

報いはすぐ来た。ある朝起きたら周りが真っ赤だ。眼底の動脈が破れて出血したのだ。「眼底出血」である。厚生省時代の伝手を頼って港区高輪台にある船員保険病院(現在はせんぽ高輪病院)にかけつけた。

眼底でした出血は出血箇所以外に吸収箇所はない。したがって赤いサングラスを掛けた状態はすぐには解決しない、との御託宣。1週間ぐらいして出血はとまった。

眼科医はそこで、出血した毛細管の先端をレーザー光線で焼いて閉じるという。任せた。何百回とフラッシュを焚かれたような状態でヤキを受けた。あれから23年、4ヶ月ごとに検査してもらっているが、毎度「異常なし」である。

序に手術を遅らせていた白内症の手術も受けた。簡単だった。それでも大事をとって1週間入院した。世の中が明るくなった。余談だが義姉にもここを勧めて手術を受けた。「家の中がこんなに汚れているとは知らなかった」といった。

以後、治療はすべてをこの病院で受けることに決めた。膵臓に対しいてインシュリンを出すように催促する薬を10年ぐらい呑み続けたが、遂に破綻の日がきた。

中国へ渡り、上海で水道水を飲んだため酷い下痢を起こし、止まらなくなった。それでも膵臓への薬は呑んでいた為、血糖値が急速に下がり、失神して救急車で入院。

あわてて帰国したが、成田到着の直後に3度目の失神。血糖値は25に下がっていた。倒れた直後、隣席にいた友人が捻じ込んでくれた飴でたすかったのだった)。

(その友人も糖尿病。全くほったらかしをしたため2010年、60を待たずに脳梗塞で死んだ。

10年ぐらい前になる。以後、血糖値の管理が簡単だからとインシュリンの注射に切り替えて今日に至っている。初めは朝夕と2回の注射だったが、現在は朝の1回だけ。

園田さんの決断のお陰で、20日分のインシュリンがボールペン型の注射器に納まっている。針だけを毎回交換する。0・2mmと世界一細い針だから痛みは殆どない。注射が好きというひとはいないだろうが、痛くないのだから逃げる必要もない。

園田さんは武道の達人だったが、痛みには弱かった。想像以上に痛がりだった。だからインシュリン注射から逃げ回った。糖尿病の合併症として田中角栄は脳梗塞、大平正芳は心筋梗塞、田中六助は盲目などで死んだ。園田は腎不全。

糖尿病はそのものでは死なないが、伴って起きる合併症で死ぬのだ。それを防ぐのが注射によるインシュリンの補給。それでも万全ではない。血管や心臓が特別弱るらしく、血圧が高くなる。これは降圧剤の服用で抑えるが、血管の詰まりを抑える手段はなかった。

1996年にアメリカで血管に詰まった血栓を溶かす薬が発明された「TPA」。日本でも2006年から使用許可が厚生労働省から出た。長嶋さんは3時間を過ぎていたため、これを使えず、後遺症が残った。

脳梗塞や心筋梗塞には極めて有効だが、脳梗塞の場合は発症後、3時間以内の注射が必要。3時間を超すと脳が萎縮して回復不能となる。長嶋さんがそれだ。その後の主治医が私と共通。2011・5・18


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