2011年05月26日

◆残った大福密約の現場

渡部 亮次郎

大福密約(だいふくみつやく)とは自由民主党の有力議員であった大平正芳、福田赳夫の間の密約のことである。

昭和51(1976)年の第34回衆議院議員総選挙で自民党が敗北し、三木武夫首相が辞意を表明。そこで、次期総理総裁を誰にするかは福田派の福
田赳夫か田中派と協力関係にある大平派の大平正芳に絞られた。

福田赳夫と大平正芳は品川のホテルで福田派から園田直、大平派から鈴木善幸が立会いの下、大平は福田を総理総裁推挙に協力すること。福田は大平を幹事長にして党務を委ねる事。総裁任期を3年から2年にする。

とする覚書を締結。大角両派と福田派が協力関係を結んで、福田首相・大平幹事長体制が確立し、福田内閣が発足した。(ウィキ)

総理総裁ポストに意欲を持つ大平が福田に総理総裁ポストを譲って総裁任期を3年から2年にしたことは、福田は総裁を1期2年のみで再選せず2年
後に大平へ政権を禅譲することを了承したものと解釈された。

この密約の現場とされた「品川のホテル」が政界では余り利用者の無かった「ホテルパシフィック東京(ホテルパシフィックとうきょう)」だ
った。

京浜急行電鉄が所有し、グループ会社のホテル京急が運営していた大規模シティホテルである。

2010年9月30日に営業終了し、建物は半年程閉鎖されたため「大福密約の現場が消えた」と思い込んでいたが違った。

新たに別のグループ会社が運営する宿泊特化型ホテル「京急EXイン」や、外部企業による結婚式場、レストラン、ショップ等のテナントを入居さ
せ、複合商業施設「SHINAGAWA GOOS(シナガワグース)」として2011年4月29日に再オープンしたのだ。

「大福密約」の頃、私は飛ばされた大阪(NHK)のニュースデスク(報道部副部長)から東京に戻ってはいたが、所属したのは国際局だったので
国内政治の取材には立ち入っていなかった。

しかし、後に、その秘書官となる園田直からはかなり立ち入った情報を聞かされていた。福田氏は総理・総裁を三月でも半年でもやりたいという。
大平の背後には反福田で凝り固まっている田中角栄が控えている。だから大平も譲る気はない。

こうした情勢では、数の点では決定的に不利なのは福田だ。従って何らかの条件を出して大平の譲歩を引き出す以外の手はない。園田は福田派
のナンバー2。ここで福田を総理にしなければ立場がなくなるし、将来も消える。

そこで園田は三木降しで肝胆愛照らす仲になった大平派大幹部の鈴木善幸を引き込む一方、田中とも通ずる知恵者保利 茂を巻き込んだ。かく
てパシフィック・ホテルでの会談となるわけだが、事前の話し合いで「2年」を条件に「福田に先をやらせる」ことが決っていた。

福田赳夫と大平正芳は品川のホテルで福田派から園田直、大平派から鈴木善幸が立会いの下、鈴木が派閥(宏池会)の便箋に万年筆で
文章を書いた。

大平は福田を総理総裁推挙に協力すること。
福田は大平を幹事長にして党務を委ねる事。
総裁任期を3年から2年にする。

という意味の文書の4人が署名した。

このとき4人は立会人としての署名を保利にも求めたが保利は、言葉を濁して署名しなかった。

大角両派と福田派が協力関係を結んで、福田首相・大平幹事長体制が確立し、福田内閣が発足した。総理総裁ポストに意欲を持つ大平が福田に
総理総裁ポストを譲って総裁任期を3年から2年にしたことは、福田は総裁を1期2年のみで再選せず2年後に大平へ政権を禅譲することを了承した
ものと解釈された。

旧佐藤派の大番頭保利茂が取りまとめ役としてセットしたもので「大蔵省の先輩である福田に大平が譲るよう」調整されたわけだった。

この席で狂喜した福田は、「2年後には政権を福田から大平へ譲渡する」旨の一文を盛り込む事を申し出た。大平はここで福田の言を信ずるので
それにはおよばないとしたが、結果的に福田はしたたかで、大平は政治家として甘かった。

それは熱心なキリスト教信者の大平と福田の人間性の違いを顕著にあらわしたものでもあった。

密約から2年後の1978年、福田は大平へ政権禅譲を拒否し、総裁選に出馬したため、大福提携が崩壊した。福田と大平は総裁選で総裁ポストを争
うも、福田は大角両派に切り崩され敗北し、大平が総理総裁となった。

この時は保利は病床で大平に自分の力不足で申し訳ないと洩らし調整を放棄し、園田直は1979年の四十日抗争時に福田派からただ一人大平に投
票した。そのため、園田は福田派から「除名」された。

ところで福田内閣が愈々出来るとなった時、私は園田から相談を受けた。福田からは建設か通産大臣を打診されていたそうだが、私は断乎として
官房長官に坐るべきだと主張した。大平政権へのバトンタッチを円滑に運ぶ為にも必要と考えたからである。

しかし、福田はなかなか承知しない。察するところ既に親分の岸信介から彼の女婿たる安倍晋太郎を官房長官にといわれ、福田もまんざら反対
ではなかったようだった。

園田は奇策を用いた。官房副長官として塩川正十郎をつれて官房長官室を占拠してしまったのである。これには流石の福田も呆れて官房長官に
指名せざるを得なかった。

だが、更に裏話をすれば、安倍を官房長官に据えろという岸の要求は執拗を究めていたらしい。1年後の内閣改造で園田は追放を喰らった。た
った1人、閣僚として留任はしたものの、ポストは外務に変わっていた。

福田にすれば、破格の待遇で処した心算。世間もそう受け取った。しかし園田は怒った。密約を反故にする意向を感じたからである。

ただし、怒りは隠して懸案になっていた日中平和友好条約の締結に邁進した。

「2年」の期限が迫るとともに福田の「密約反古」が歴然となったが、その動きに園田は決して乗らなかった。むしろ田中との連絡を綿密にす
るなど、大平政権実現に裏で走るようになった。

後に大平は心筋梗塞で急死するが、仮に福田が密約を反故にしていなければ福田が後任として再登場するところだった。

しかし園田はもはや福田派から除名されていて「義理」はない。大平弔問の足で目白の田中邸を訪問、「後任は鈴木善幸」を決めてしまった。
2011 ・5・24


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