2011年05月30日

◆与党倒閣運動の難しさ

渡部 亮次郎

政権党による総理辞任要求は民主党が始まりではない。自民党反主流による「三木降し」があった。現職総理を辞めさせる事は、極めて難しいのである。小沢氏もその実技は経験していない。宮澤政権を不信任案賛成で斃した経験はある。

ロッキード事件発覚後、三木武夫首相は「日本の政治の名誉にかけて真相を明らかにする必要がある」との態度を表明。

予算委員長の荒舩清十郎を後押しして1976年2月16日、事件関係者として小佐野賢治、全日空社長の若狭得治、丸紅社長の檜山広等の証人喚問と、病床にあった児玉誉士夫を病院で尋問を実現、その全容を明らかにした。

しかし、元々左派にあったこの三木の姿勢に対し、自民党内部の反発と怨念をかもし出しはじめた。

こうした中、三木政権生みの親である椎名悦三郎は、「はしゃぎすぎ」と発言し、三木退陣工作を勧める。これが、いわゆる「第一次三木おろし」である。

しかし、この時はマスコミ、世論が「ロッキード隠し」と批判を強め、これを受け一旦は「第一次三木おろし」が収まった。

しかし1976年7月27日の田中角栄の逮捕で三木おろしの動きが活発化していく。

田中角栄が8月17日に保釈されるのを待っていたかのように、8月19日には反主流6派(田中派・大平派・福田派・船田派・水田派・椎名派)が中心となって自民党議員277人で「挙党体制確立協議会」(挙党協)を結成。代表世話人に船田中元衆議院議長が就任。

小沢氏はこの時代、まだ自民党におり、田中派に所属していたが未だ幹部ではなかったから、修羅場に出る事は無かった。

挙党協は三木首相に対して退陣要求を突きつけた。この時、三木政権に協力する派閥は三木派と中曽根派だけという状況であった。

ただし挙党協は反三木では一致していたものの、三木退陣後の次期首相擁立について福田赳夫か大平正芳の二人のどちらかに絞りきれていない脆さが存在していた。

三木は「ロッキード事件解明」という世論の支持を背景に衆議院解散とこれに反対するであろう閣僚の罷免をちらつかせて対抗を図る。

臨時国会召集を決める1976年9月10日の閣議で三木は会期冒頭での衆議院解散を諮ったが、挙党協に参加している15閣僚は解散署名に拒否する姿勢を示した。

三木は閣僚を罷免してまで解散権を行使することはなく、9月15日に内閣改造と自民党役員人事の刷新を行い、派閥の領袖である福田・大平以外の13閣僚を交代させた。

挙党協も三木の抵抗の攻め手に喘ぐだけだった。かくて、最終的に三木は挙党協の攻勢をしのぎきったが、臨時国会の閉幕と共に(密約の成立により)約挙党協から次期総理・総裁候補に推挙された福田が閣内から去る。

12月に行われた日本国憲法下、初の任期満了による総選挙では、挙党協議員は自民党公認を受けながら、党本部とは別に選対本部を設置し、分裂選挙となった。

その結果、自民党は結党以来初めて過半数割れする敗北を喫し(無所属候補の追加公認後に過半数を維持することが出来たが、定員が20増えていたにもかかわらず改選前8議席減と惨敗といってよい結果だった)。三木内閣は責任を取って退陣した。

任期満了に伴う総選挙での敗北を理由の退陣だから、三木降しは形式的には成功したとは言えない。逆に言えば「辞めたくない首相」は、それだけ強い。海千山千の小沢氏は、その事は良く承知しているだろう。

三木は元々、1974年(昭和49年)12月、田中総理の内閣総辞職で行われた後継総理選出において、椎名悦三郎副総裁の指名裁定で総裁に就任(椎名裁定)したものだった。

この裁定に三木自身が「青天の霹靂」とコメントしたほど意外性をもって受け止められた。ただし三木には椎名裁定以前に椎名から事前に指名される旨が伝えられている。

これについては、金権政治に対する批判を一時的にかわすためであると見られたことと、後述する三木の政治的な立ち位置をもじって「左のワンポイントリリーフ」とも評された。

三木政権は政治浄化に着手し、公職選挙法や政治資金規正法を改正し政治献金の額に上限を設けさせた(三木は当初企業献金の全廃を意図していたが党内の猛反発に遭い断念した。これが三木おろしの遠因になったという説もある)。また防衛費1%枠を閣議決定した。
「ウィキペディア」2011・5・28


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