2011年06月16日

◆中村 八大 若すぎた死

渡部 亮次郎

愚兄誠一郎は2011年6月初め、目出度く傘寿(80歳)を迎えた。糖尿病持ちの上に胆嚢と胃が無い。脳内血管にも異常があり、2回開頭手術を受けた。それでも、流石に中学生時代から吸い始めた煙草を最近やめたものの、アルコールは毎晩日本酒を飲んでいる。

本人は「夢枕に立った親父が、おまえは87まで生きるといった」という。母は98までボケもなしに生きたから、頑張れと、先日、秋田市の家を訪ねていった。

一方、同じ昭和6年生まれなのに、作曲家の中村八大は、既に20年も前に、僅か61で亡くなった。糖尿病の合併症とみられる「心不全」の為だった。


中村 八大(なかむら はちだい、1931年1月20日―992年6月10日)は、青島(当時は中華民国、現在の中華人民共和国)出身の作曲家・ジャズピアニスト。

『上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『明日があるさ』など、1950年代末から1960年代にかけての数々のヒット曲を作曲した。 NHKは2011年6月6日午前3時から1時間「深夜便」で作品の数々を振り返った。

深夜便で流れたのは上記以外に「夢で逢いましょう」「おさななじみ」「故郷のように」「涙をこえて」「帰ろかな」「幸福のシッポ」「世界の国からこんにちは」「黄昏のビギン」。

兄の中村二大はクラリネット奏者。妹の夫は漫画家の寺田ヒロオ。

中国大陸で出生後、1945年に福岡県久留米市へ引き揚げ、そこで旧制中学校時代を過ごす。

旧制中学明善(現・福岡県立明善高等学校)、早稲田大学高等学院、早稲田大学文学部卒業。

学生時代からピアニストとして活動。早稲田大学高等学院在籍時には、ダンスバンド『谷口安彦とプレミア・スウィング』や人気学生コンボの『レッド・ハット・ボーイズ』などに客演するようになった。

早稲田大学に進学してからは、ジョージ川口、松本英彦、小野満と共にジャズバンド「ビッグ・フォー」を結成していた。

その活躍ぶりが、当時早稲田大学のベーシストだった渡辺晋(後の渡辺プロダクション創業者)の耳に届き、早稲田大学文学部に進学後 兄・二大を通じて渡辺晋と対面。

渡辺が結成していたコンボバンド『ファイヴ・ジョーズ&ア・ジェーン(後の『渡辺晋とシックス・ジョーズ』)に加入した。

しかしながらアーテスト志向の中村とエンターテナー志向の渡辺とでは意見を異する場面もあり結局、渡辺と袂を分かち1953年からはドラマーのジョージ川口率いるカルテット「ビッグ4」のメンバーとなり、当時の日本における大衆的ジャズブームの渦中で非常な人気を得た。

1950年代末からは作曲家としての活動に主軸を転じ、ジャズのセンスを生かした特異な作風で、それまでの日本の歌謡曲とは一線を画したユニークな歌曲を多く作った。

永六輔とのコンビで多くのヒット作を世に送り出したことから、『六・八コンビ』と呼ばれる(「上を向いて歩こう」など二人の歌をしばしば歌った歌手の坂本九を合わせて、『六・八・九』と呼ばれることもある)。

1959年の『黒い花びら』(作詞・永六輔、歌・水原弘)で、第1回日本レコード大賞を受賞。

1963年の『こんにちは赤ちゃん』(作詞・永六輔、歌・梓みちよ)で、第5回日本レコード大賞を受賞。

1966年1月、ミュージカル「宝島」の音楽担当。

1966年10月、第1回リオデジャネイロ国際音楽祭に、江利チエミの『私だけのあなた』を出品。オーケストラ編曲賞を受賞。 1970年からはNHK総合テレビ「ステージ101」の音楽監督を務めた。

1992年6月10日、心不全のため他界。享年61。晩年は持病の糖尿病に苦しみ音楽活動の一線からは退いていた。

不可欠なインスリンの注射を完全にしていたのだろうか。自己注射の許可が遅れた犠牲だったのではないだろうか。


友人は注射そのものを嫌って受診を見下回ったため、還暦を待たずに昨年脳梗塞に倒れ、ほぼ即死した。遺児は2人とも未成年である。

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