2011年08月19日

◆日米戦争を予測した憂国の士

渡部 亮次郎


朝河貫一のことは、朝河と同郷の外交官古川清さんから聞かされていたが、詳しくは知らなかった。NHKのラジオ深夜便が16日午前4時から放送したので、ウィキで調べてみた。

深夜便で前4時台 〔明日へのことば〕   歴史学者・朝河貫一に教えられた事 と題して語った玉川聖学院講師 山内晴子さんは主婦のあと大学院に入りなおし、朝河の研究で博士号を得た凄い人である。

日露戦争で勝利した日本が軍部の傲慢を抑えられず、これでは日米戦争が避けられなくなると、アメリカにいて心配した朝河の苦悩と活躍を活写した論文による。

朝河 貫一(あさかわ かんいち、1873年(明治6年)12月20日 - 1948年(昭和23年)8月10日)は、日本の歴史学者。イェール大学では“Historian”、“Curator”(キュレーター)、“Peace Advocate”(平和の提唱者)として評価されている人である。1937(昭和12)年日本人初のイェール大学教授に就任した。

業績 の第一に「歴史学者」としての業績がある。古代から近代に至る日本法制史、日本とヨーロッパの封建制度比較研究の第一人者として欧米で評価され、後にイェール大学教授となった。

特に「入来文書」(鹿児島県薩摩川内市(旧入来町)の入来院家に伝わり鎌倉時代から江戸時代にわたる古文書群の研究が有名で、これをまとめた英語の著書が”TheDocuments of Iriki” (『入来文書』 1929年、昭和4年)である。マルク・ブロックらアナール学派の歴史学者とも交流があった。

第二に「平和の提唱者」としての業績がある。『日露衝突』を著し、全米各地で日露戦争における日本の姿勢を擁護し演説した朝河は、日露戦争後の日本の姿から将来の「禍機」を予測し、日本に警鐘を発するため、1909(明治42)年『日本の禍機』を著した。

『日本の禍機』で発した警鐘は、後に現実のものとなる。1941(昭和16)年11月、日米開戦の回避のためにラングドン・ウォーナーの協力を得て、フランクリン・ルーズベルト大統領から昭和天皇宛の親書を送るよう、働きかけを行った。朝河は第2次世界大戦中、戦後もアメリカに滞在したが、終生、日本国籍のままであった。

第三に「キュレーター」としての業績がある。1906年の第1回帰国では、米国議会図書館、イェール大学の依頼で日本東アジア関連図書・資料の収集を行った。

イェール大学図書館には、『手鏡帖』(8世紀?17世紀の主要な個人の仏書・手紙・歌書等の筆跡を集めた帖)、『青蓮院尊円法親王御筆』(青蓮院流の初祖、尊円法親王の御筆)、『竹取物語』(奈良絵本)、『厳氏孝門清行録』(朝鮮本)、『烈女傳』(漢籍)、『伊勢物語』(所蔵されているものは室町中期?江戸前期に製作された奈良絵本)等が所蔵されている。

これらの図書・資料は、欧米での日本研究や東アジア研究に必要不可欠なものとなっている。なお、2010年8月には、朝河の呼び掛けに応じ、日本在住の同大卒業生や当時の東京帝国大・黒板勝美が贈った2曲1双の屏風の中に、東大寺を復興した僧・重源(1121-1206)が1192(建久3)年に花押を記した文書を確認したことを、東京大史料編纂所が発表した。

朝河の数々の業績を讃え、2007(平成19)年10月にはイェール大学講師就任 100年を記念し、セイブルック・カレッジ構内に「朝河貫一庭園」が造られた。

この庭園は2000(平成12)年にニューヨークの国連本部にある「平和の鐘」公園を造ったアベ・シンイチロウによってデザインされた。また、ダートマス大学には朝河貫一の業績を記したプラークが朝河貫一博士顕彰協会より贈られた。

これに先立ち、2007(平成19)9年月には、外交官時代にイェール大に学び、自称「弟子」を自認する加藤良三駐米大使(当時)を招いたシンポジウムを福島県郡山市の安積歴史博物館で開催、500人を超す福島県民、安積高校生等に真の国際人・朝河について講演した。

福島県二本松市出身。父は旧二本松藩士朝河正澄、母は旧田野口藩士の長女杉浦ウタ(ウタは貫一が2歳の時に亡くなったため、その後は父正澄と継母エヒに育てられる)。

1874(明治7)年、父正澄が「伊達郡立子山村小学校」(現福島県福島市立立子山小学校)の校長格として赴任するため、現在の福島県福島市立子山にある天正寺に移住した後、新校舎とともに建設された校長住宅へ移る。天正寺には朝河が 4歳の時に描いた馬の絵が現存する。

1878(明治11)年立子山小学校初等科に入学後、同校普通科・高等科(3級まで)を修了する。その後、川俣小学校高等科(現福島県伊達郡川俣町立川俣小学校)へ移り、1887(明治20)年10月、蒲生義一に就いて英学を学ぶ。

1888(明治21)年、現在の福島県福島市杉妻町にあった福島県尋常中学校(現福島県立安積高等学校)に入学する。1889(明治22)年、現在の福島県郡山市に福島県尋常中学校が移転すると、朝河は郡山市の宮本家に下宿し、そこから通学する。福島県尋常中学校在学中、英国人教師トーマス・エドワード・ハリファックスに教えを受ける。

1892(明治25)年3月、同校を首席卒業の後、5月〜8月まで郡山尋常小学校(現福島県郡山市立金透小学校)で英語教授の嘱託を勤める。

1892(明治25)年12月、東京専門学校(現早稲田大学)に編入学し、1895(明治 28)年首席で卒業。同校在学中に大西祝、坪内逍遙、夏目漱石等の教えを受ける。またこの時期、横井時雄により洗礼を受ける。

1895(明治28)年、大西祝、大隈重信 、徳富蘇峰、勝海舟らに渡航費用の援助を受けてアメリカへ渡り、ダートマス大学へ編入学する。

1899(明治32)年 米国ダートマス大学を卒業する。

1902(明治35)年イェール大学大学院を卒業する。1902(明治35)年Ph.D.を受ける。

1902(明治35)年ダートマス大学講師となる。

1905(明治38)年 クラウンポイントの教会でミリアム・キャメロン・ディングウォールと挙式する。

1906(明治39)年〜1907(明治40)年米国議会図書館とイェール大学図書館から依頼を受けた日本関係図書収集のため一時帰国する。(第1回帰国)

1906(明治39)年9月?1907年(明治40年)6月早稲田大学文学部講師となる(英語を担当する)。

1907(明治40)年再渡米、イェール大学講師、次いでイェール大学図書館東アジアコレクションキュレーターに就任する。

1907(明治40)年ミリアム・キャメロン・ディングウォールと入籍する。

1910(明治43)年同大学助教授となる。

1913(大正2)年ミリアム・朝河と死別する(ミリアムの墓は米国コネティカット州ニューヘブン市内エヴァグリーン墓地にある)。

1917(大正6)年〜1919(大正8)年東京大学史料編纂所に調査・研究のため一時帰国する。(第2回帰国)

1930(昭和5)年イェール大学準教授となる。

1937(昭和12)年日本人初のイェール大学教授に就任する。

1941(昭和16)年 日米開戦を避けるため、天皇宛米国大統領親書草案をラングドン・ウォーナーに渡す。

1942(昭和17)年同大学名誉教授となる。

1948(昭和23)年 同大学図書館日本部長兼キュレーターを勤める。

1948(昭和23)年バーモント州ウェストワーズボロで死去する。享年75。遺体はコネチカット州ニューヘヴンのグローヴストリート墓地に埋葬される。また、福島県二本松市の金色(かないろ)墓地に墓が建立されている。


トーマス・エドワード・ハリファックス

福島県尋常中学校時代の朝河に英語を教えたハリファックスは、英国(イングランド)ウィルトシャー州ウェストベリーに生まれる。1871(明治4)年から1874(明治7)年までの約3年間、工部省電信寮に電信技師として採用された後、中村正直の同人社や近藤真琴の攻玉塾等の私塾で英語を教える。

その後ハリファックスは朝鮮に渡り、朝鮮で最初の王立英語学校「同文学」で朝鮮の関税職員や外交官等に英語を教えたり、ソウル〜プサン間の電信線工事に携わったりする。

1890(明治23)年、福島県尋常中学校に赴任する。1892(明治25)年、時の福島県会がハリファックスの解雇を審議することを知った朝河は、「留任嘆願書」を提出した。

しかしその後、ハリファックスの解雇が決まった。福島県尋常中学校を去った後、ハリファックスは長野県尋常中学校(現在の長野県松本深志高等学校)、朝鮮官立英語学校で教鞭をとる。愛嬢アグネス・フローレンス・ハリファックスと共に、韓国ソウル市のヤンファジン(楊花津)外国人墓地に埋葬されている。(「ウィキペディア」)2011・8・16

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