2011年08月26日

◆張春橋の軟らかな手

渡部 亮次郎


(再掲)1972(昭和47)年9月29日、日本国政府と中華人民共和国政府の共同声明(日中共同声明)調印。日中国交回復。その足で田中角栄首相は周恩来首相と共に中国側の特別機で上海を訪問した。今でもそうであるように上海は中国の権勢のもう1つの拠点。敬意を表したのである。

その時、上海を代表して出迎えたのは張春橋であった。経歴を改めてみると1969年〜1973年 中共中央政治局委員となっているが、われわれ同行記者団には「上海市長」と紹介された。握手してくれた手はまことに軟らかく乾いていた。未だにあんな手を握ったことは無い。

そう、張春橋こそは、のちに悪名高い「4人組」の1人だった。毛沢東の指示により張春橋は翌日、上海空港からの見送り客を北京の2倍に増やしたのだった。そこで周恩来は別れ際、田中首相に言った、「天皇陛下によろしく」。私は離れたところに置かれたから聞いてないが・・・。

張春橋(ちょうしゅんきょう 1917年〜2005年4月21日)は中国元副首相、4人組の1人。山東省出身。

1930年代までは、上海の作家だった。1938年中国共産党に入党。『晋察冀日報』と『新石門日報』の編集長を歴任。

1949年10月の中華人民共和国成立後、『解放日報』の編集長、上海市常任委員、宣伝部部長、上海市書記候補などの役職に就く。

1958年、『破除資産階級法権』を発表、毛沢東に絶賛された。上海で江青と合流し、文化大革命の発動に関わる。そのおかげで出世はヘリコプターとたとえられる。

1966年〜1969年 中共中央文化革命グループ副リーダー
1969年〜1973年 中共中央政治局委員
1973年〜1976年 中共中央政治局常任委員

1975年〜1976年 国務院副首相
1975年〜1976年 中国人民解放軍総政治部主任

<この文化大革命(文革)によって浮上した江青(中央文革小組副組長の毛沢東夫人)、張春橋(副首相、政治局常務委員)、姚文元(政治局委員)、王洪文(党副主席)の4人とそのグループを「4人組」と言った。

文革では様々なグループが登場したが、林彪グループと並ぶ一大勢力を形成、主に上海を拠点にして活動した。

1971年9月の林彪事件で林彪グループが脱落した後に勢力を伸張。日中国交正常化後の73年8月の10全大会では4人全員が中央政治局入りした。

政治局内で「4人組」(4人幇)を形成、文革の主導権を確立した。その後、批林・批孔運動による周恩来批判、さらには復活していたトウ小
平の打倒へと向かった。

しかし、毛沢東は、1974年7月の中央政治局会議で「4人組をつくってはならない」と、江青、張春橋らを批判。10月には王洪文が長沙の毛沢東を訪れトウ小平を批判、筆頭副総理の就任を阻止しようとしたが、逆に毛沢東から叱責されるなど、必ずしも思い通りにはならなかった>。「現代中国ライブラリー」

 http://www.panda-mag.net/keyword/ya/yoningumi.htm

彼らが運動の拠り所の1つとした批林・批孔運動とは1973年8月から1976年まで続いたもの。林彪と孔子および儒教を否定し、罵倒する運動。中国の思想のうち、法家を善とし儒家を悪とし、孔子は極悪非道の人間とされ、その教えは封建的とされ、林彪はそれを復活しようとした人間であるとする。

中国の歴史人物の再評価も行われ、以下のように善悪を分けた。(以下には竹内実『現代中国における古典の再評価とその流れ』により主要人物を挙げる)善人=少正卯、呉起、商鞅、韓非、荀況、李斯、秦の始皇帝、漢の高祖、漢の文帝、漢の景帝、曹操、諸葛亮、武則天、王安石、李贄(李卓吾)、毛沢東ら。悪人= 孔子、孟子、司馬光、朱熹ら。

この運動は、後に判明したところによれば、孔子になぞらえて周恩来を引き摺り下ろそうとする4人組側の目論見で行われたもので、学者も多数孔子批判を行った。

武則天が善人の中に入っているのは、江青が自らを武則天になぞらえ、女帝として毛沢東の後継者たらんとしていたからだといわれる。司馬遼太郎が行った現地レポートによれば、子供に孔子のゴム人形を鉄砲で撃たせたりもしていたという。

司馬遼太郎はこの風景を見て非常に衝撃を受け、元々文化大革命に理解を示していたが、これ以降否定的になっていった。(ウィキペディア)

江青は中南海の懐仁堂で電撃的に逮捕。

<1976年1月に周恩来が死去。その後、第1次天安門事件などで民衆の反4人組感情が高揚した。トウ小平を再度の失脚へ追い込んだが、同年9月の毛沢東の死去で権威を失った。

上海からクーデターによる奪権を計画。「江青党主席、張春橋総理」による4人組支配を樹立しようとしたが、10月6日、汪東興が率いる8341部隊によって、中南海の懐仁堂で電撃的に逮捕された。

華国鋒政権による逮捕劇の背後には葉剣英ら軍長老たちがいた。ここに4人組の文革は終焉した。1977年7月の10期3中全会で党籍永久剥奪。続く8月の11全大会では、1966年以来11年にわたった文革の終結が宣言され、4人組は断罪された。

迫害、追放されていたトウ小平ら“実権派”の指導者たちの名誉は回復され復活した。「4人組」という表現は、主として失脚してから使われるようになった。

1981年の林彪・4人組裁判では、それぞれ死刑から懲役刑の判決が下された。このうち、江青は1991年に獄中自殺。王洪文は服役中の1992年に病死。張春橋は出所後の2005年に胃ガンで死去。姚文元も出所後の2005年末に糖尿病で死去している。「現代中国ライブラリー」

 http://www.panda-mag.net/keyword/ya/yoningumi.htm

張春橋の天国から地獄への道を敢えて示せば次の通りである。(「ウィキペディア」)

1976年10月、隔離審査。

1981年1月、最高人民法院特別法廷で、執行猶予2年付き死刑判決。法廷では黙秘を貫く。1983年1月、無期懲役、終身の政治権利の剥奪に減刑。

1997年12月、懲役18年、10年間の政治権利の剥奪に再減刑。 1998年1月、健康状態を理由に仮出所。 2005年4月21日、胃がんのため、死去。享年88。執筆2007・05・15
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック