渡部 亮次郎
東京・国立に住んでいる時に「アマデウス」という映画を観た。25年以上前だ。モーツアルトの伝記映画であった。モーツアルトの事は多少知っていたが、アマデウスというのが名前だとは知らなかった。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(Wolfgang Amadeus Mozart,1756年1月27日 ―1791年12月5日)は最も有名なクラシック音楽の作曲家であり、また、ハイドン、ベートーヴェンと並ぶウィーン古典派3巨匠の1人。オーストリアのザルツブルクに生まれ、ウィーンで没した。35歳。
モーツァルトを描いた肖像画の中でも特に有名な絵は、モーツァルト死後の1819年にバーバラ・クラフトによって描かれたものである。端正な男に描かれているが、写真の無い時代。小柄、近眼、あばたの醜男だったという説もある。
作品総数は、断片も含め700曲以上に及ぶ。作品はあらゆるジャンルにわたり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタなど)のどちらにも多数の作品が残されている。自身はヴァイオリンとピアノ演奏の双方に長けていた。
作品を識別するには、植物学者のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号(K.+数字)が使われる。ケッヘル番号は何度か改訂されており、最新のものは第8版である。
モーツァルト自身は、1784年以降に自作の作品目録を付けている。しかし、それより前の作品や、自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもある。
断片も含め700曲以上に及ぶというが、僅か35年の生涯でこれだけの作品を残したという事は当(まさ)に天才。楽譜に記しながら次の作品を頭に描いていたとしか思えない。
モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多い。これは、当時の音楽の流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれる。モーツアルトは歌い、ベートーヴェンは唸ると私が言ったのは当っている。
晩年に向かうにつれて、長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容される。また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高い。
「下書きをしない天才」と言われることがある。モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられている。自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されているというのが事実である。
人気の高いピアノ協奏曲23番においては、数年前に書かれた草稿が発見されている。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば交響曲第36番はモーツァルトがリンツを訪れている間に作曲されたものであるが、父親との手紙のやり取りから彼が3日でこれを書き上げた事が分かっている。
交響曲第39番から41番までの3つの交響曲は6週間で完成させている。また別の手紙からは、彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら同時に第2楽章を頭の中で作曲し、今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲した、という手順を踏んでいたという事が分かっている。
モーツァルトの作品の多くは、手紙や各種の資料で確認できるように、生計を立てるために注文を受けて書かれた。モーツァルトの時代は作曲家がのちの時代のように「自己表現の方法として作曲し、聴衆にもそれが理解される」という状態には至っておらず、モーツァルトも芸術家というよりあくまで「音楽の職人」だった。
彼が子供の頃から各地を旅行して廻った理由のひとつが就職活動であり、ベートーヴェンのようにフリーランスとして生きていくことは非常に困難な時代だった。
従って、モーツァルトの作品はその時代に要求された内容であり、たとえば長調の曲が多いのは、それだけ当時はその注文が多かった(したがって人気があった)事の証でもある。
モーツァルトの作品はベートーヴェンの作品と比較してその差異を論じられることもあるが、決定的に異なっているのは二人がおかれていた社会的状況の差であると言える。
モーツァルトは病に伏す前に、妻コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語ったことがある。また、死の後にウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じた。
しかし、当時モーツァルトの周囲の人間で毒殺を信じていていた者はいない。1820年ごろになって、ウィーンでは「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行した。
老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされることとなる。この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』や『アマデウス』などの作品が作られた。
現在、国際モーツァルテウム財団(ザルツブルグ)にはモーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されている。頭蓋骨に記された由来によれば、埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理され遺骨は散逸してしまったという。
この時、頭蓋骨だけが保管され、以来、複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵された。
遺骨の真贋については、その存在が知られた当初から否定的な見方が多いが、2004年、ウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行うと発表した。
鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日にオーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表された。
これによると、調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯と、モーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNAであった。
検査の結果、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかった。(ウイキペディア)