2011年09月19日

◆日中は角栄の政局手段

渡部 亮次郎

例えば「ウイキ」にはこうある。

<田中内閣の外交業績としてまず挙げられるのは、日中国交正常化である。

背景として、1972年1月にアメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンが中華人民共和国を訪問したこと、および三木武夫が総裁選における田中支持の条件として日中国交正常化を条件としたことがある。

これによって田中は中華人民共和国から「井戸を掘った恩人」と評価された。日中外交の先駆者という意味であり、田中が金脈問題で失脚した後も?小平が田中の私邸を訪問し敬意を表している。>

忘れもし無い。9月25日こそは田中角栄首相の初訪中の日であり特別機にテレビ界を代表して同乗を許され、同行取材を開始した日である。1972(昭和47)年。今から39年前。来年は日中国交正常化40周年である。

田中の親分は佐藤栄作。岸信介首相の実弟にして運輸次官から政界入りした官僚派のチャンピオン。角栄はその下で派閥佐藤はの資金作りを黙々として信用を得たらしい。佐藤が7年の長期政権を降りるといった時、真っ先に手をあげた。

このとき、自他共に許すライバルとして立ち向かったのが福田赳夫であった。大蔵官僚上がりの秀才とされ、かねて佐藤は彼を後継者に見た立ていた。しかし、党内の人気は薄かった。

同時に大平正芳、三木武夫、中曽根康弘が立候補。彼らはいずれも日中国交回復を条件に田中氏支持を表明した。佐藤支持を背景にする福田と接線の戦いを余儀なくされる田中だったが、決選投票で大勝利したのは当然だった。

記者の矩を越えて、佐藤のところへ電話で福田への梃入れを要請したが佐藤は言を左右するばかりだった。当時佐藤は生まれ故郷に帰省していた。

この点について党内のある実両者は「カネがまわったのだろう」と推測し後に「3億円だったよ」と教えてくれた。確たる証拠は無いが、耳にしたことを書いておく。

首相特別機の他に記者団80人の特別機が同行した。到着した北京空港は昼過ぎ、快晴。ブラスバンドが盛んに鳴らされた。街路樹の植えられた道をだらだらと北京のホテルへ急いだ。

田中首相、大平外相、二階堂官長官と中国側周恩来首相らとの交渉は休みなく行なわれたようだったが、発表に来る都度、官房長官は「発表するものは、ありません」。

それでも29日、突如、人民大会堂で、日中両国首相日中共同声明に調印、発表した。整列する記者団席から見つめていた。

○ 国交を樹立(日本側、戦争で中国国民に重大な損害を与えた責任を痛感して深く反省、

○ 復興3原則を尊重、中国側は賠償放棄

○ 両国、平和友好条約締結に同意)

なお、大平外相は記者会見で「日台条約は存続の意義を失い終了」と表明した。

これに至るまで田中首相ら3人は深夜、通訳帯同も許されずに毛沢東主席への表敬が許されたが、我々記者団にはカラー写真が翌朝、中国側から配布されただけだった。

かくて一行は上海に1泊して帰国したのだが、それからの田中内閣も三木内閣も日中平和友好条約の締結交渉に失敗、福田赳夫内閣にひきつがれ、園田直外相が6年ぶりに締結した。

振り返ってみると、角栄も園田も中国側から見て「井戸掘り」の恩人だが、彼ら自身は何の政治的メリットを負ってない。

ただ、角栄だけは、これによって政局の求心力を増したから、マイナスではなかったろう。それでも「金脈」で失脚し、ロッキードで裁判に引き出されて脳梗塞で死亡。園田もその先に腎不全で死亡した。足跡は歴史にしか残ってない。(文中敬称略)2011・9・17
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