2011年11月16日

◆真紀子のトラウマ

渡部 亮次郎


首相・田中角栄が退陣したのは1984年11月號の「文藝春秋」立花隆「田中角栄研究ーその金脈と人脈」で起きた世論の批判によるもの、というのが、ほぼ「伝説」になっている。だが違う。

生前、本人が私に語ったところによれば「ありゃ、たいした事はなかったが、もう1本のことで娘が大騒ぎしおってなァ、アレに参ったんだよ」であった。

アレとは立花論文と並列掲載された児玉隆也の「寂しき越山会の女王」で、金庫番佐藤昭(あき。後に昭子と改名)との間に認知していない娘のいることを暴露したものだった。

私は田中には、東京・神楽坂のもと芸者に生ませた男の子2人がいる事は知っていたが、昭の娘は別れた前夫との子と思っていた。ところが児玉は離婚成立前に田中との間にできた、いわば不倫の子だと暴露したのである。

この頃、世間は、金脈にばかり気をとられていたが、田中家においては、この娘のこと、長女真紀子は驚き、大声をあげて父親たる角栄を難詰。「恥ずかしくって街を歩けないツ」。折から妊娠中なのに、2階のベランダの手摺の上に立ち「辞職しなければ飛び降りる」と迫ったという。

あの時は血糖値が300にも上がって往生した。真紀子の脅しに屈したのだと述懐していた。くれぐれも立花論文が総辞職の直接的な原因では無いと強調していた。

私は記者時代は田中のライバルだった福田赳夫の担当。田中周辺からは警戒される存在だった。それが田中と会話ができるようになったのは、秘書官として仕えた外務大臣園田直が、のちに鈴木善幸政権実現で田中と急接近したからである。

児玉隆也も若くして癌死してしまったが、生前のある日訪ねて来て言った。「渡部さん、政治家が記者を買収するのに800万円を差し出すことがあるんですか」「ないだろうね、500万とか1000万円とか、纏まった額じゃないのかなぁ」

児玉によると光文社の女性週刊誌「女性自身」のデスクをしていた昭和41年ごろ、佐藤昭のことを記事にしようと取材をはじめたところ、しばらくして作家で作詞家の川内康範がやって来て、あの取材をやめてくれ、と言って差し出したのが800万円だったというのである。勿論断った。

のちに角栄の秘書早坂三に訊いたところ、「あの時おやじが政治評論家の某氏に工作費として渡した金額は3000万円だった」との答え。評論家と作詞家で実に2200万円も「中抜き」したのである。

早坂秘書によれば金は全く戻ってこなかった。だから角栄は「工作成功」と思い込んでいた。それが文藝春秋に載ったので2重の驚きだったという。

児玉は工作に応じなかったが、「カネを受け取って記事を書かなかった」という噂がたったので、光文社を退職、独立して苦労していた時、文藝春秋から「注文」があったので書いた、と述懐していた。昭和政治裏面史の一駒である。敬称略 2011・10・28

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