2011年11月30日

◆三越天皇「なぜだ!」

渡部 亮次郎


デパートといえば、東京では三越が代表していた。戦前から「今日は帝劇、明日は三越」(その逆だったかもしれない)が金持ちを象徴するキャッチ・フレーズだった。確かに高島屋とか松坂屋とかもあったが、「一流」は三越だった。

それが三越の天皇といわれた社長岡田茂のために、三越はその地位を失い、あれから29年も経つのに、三越はその地位を高島屋に奪われたままである。事件の起きたのが1982(昭和57)年9月22日だった。

<この日の取締役会。5つの議案の審議が終わった後、岡田の腹心中の腹心だった専務・杉田忠義に議長を交代した。ところが、岡田に渡された議案には書かれていない第6号議案、岡田解任決議が杉田から発議され、16対0で可決し、その場で岡田は非常勤取締役に降格となった。

このとき岡田が発した「なぜだ!」はこの年の流行語となった。後任には岡田によって飛ばされた名古屋三越社長の市原晃が就任し、信頼回復に全力を尽くした。>

<岡田 茂(おかだ しげる、1914年8月3日 - 1995年7月20日)は京都府出身、慶應義塾大学文学部卒業。元東映社長の岡田茂(故人)とは同姓同名だが全くの別人。

1938年、大学卒業と同時に三越に入社。宣伝部長などを経て1972年に社長となる。>

1977年暮に福田赳夫内閣の官房長官から外務大臣に転じた園田直に当時の日本商工会議所会頭を中心とする、財界の後援会が出来た。彼にはそれまでまともな後援会がなかった。この幹部の中に岡田社長も入っていた。

東急の五島社長、ホンダの本田社長、三井銀行の小山会長も居た。二た月に1回ぐらい、親の宴会が開かれ、なぜか秘書官の私も同席が許されたが、末席だから、いつも本田社長、岡田社長と話す機会が多かった。

いつか岡田社長がディズニー・ランドの本社関係者を連れて、外務大臣に表敬訪問に来た。浦安の海を埋め立てて「東京ランド」を作るという話だった。ところが園田は会談中、グーグー鼾をかきはじめたのでこちらは慌てた。

元特攻隊長の園田にディズニーランドは関心外だったのだ。しかし失礼だった。岡田はこれを根に持ち、後に残した回顧録に書いている。<社長就任後は「岡田天皇」と呼ばれたワンマン体制を築き、意にかなわぬ人物を次々と”粛清”していった。

強引な経営手法は1982年6月には優越的地位の濫用で公正取引委員会から審決を受けることになる。そして同年8月の「古代ペルシャ秘宝展」で偽物騒ぎが発生>

この秘宝展を友人に案内されてみたが、かつてイランの宝物殿で見せられたものとは似ても似遣わないものだったので、頭をかしげた。間もなく偽物騒ぎが起こった。

<さらに「三越の女帝」と呼ばれた愛人の竹久みちへの不当な利益供与も明るみに出た。こうした中、水面下では三井銀行会長・小山五郎を中心とした岡田おろしの準備が進められていた。

8月28日「古代ペルシャ秘宝展」の出展物の大半が贋作である事が判明。9月22日 愛人の「三越の女帝」こと竹久みちの経営する「アクセサリーたけひさ」に不当な利益を与えていたり、自宅の改修費用に会社の金を流用していたりした問題まで出てきて飼い犬に手を噛まれる如くに解任されたのだった。>

問題の取締役会の開かれたのが29年前の9月22日だった。

<10月に竹久みちが特別背任で逮捕、10月29日には岡田自身も逮捕に至った。逮捕の際に取締役を辞任、これ以後三越とは一株主としてのつながりしかなかった。

1987年に東京地裁で懲役3年6ヶ月の実刑判決、控訴審の東京高裁で1993年に懲役3年の実刑判決が出され最高裁へ上告していたが係争中の1995年7月20日、腎不全のため死去。享年80。

高杉良の「王国の崩壊」(新潮文庫)は、岡田社長をモデルにした経済小説である。>

<竹久だけの公判が続けられて1997年10月上告棄却。懲役2年6月、罰金6000万円の実刑判決が確定して竹久は収監された。 この年の一連のスキャンダルを総称して「三越事件」と呼ばれる。

なお、百貨店の創業としては日本で三越が最古であるが、前身からの母体での創業では松坂屋が日本最古である。>

たった1人の人間で伝統は傷つき、回復に大変な苦労を後輩が舐めさせられるという典型的な例である。(文中敬称略)<  >内は出典:『ウィキペディア』

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