2011年12月12日

◆東條の頭叩いて助かった人

渡部 亮次郎


常連寄稿者平井修一さんが70周年「真珠湾の真実」(12月8日号)で取り上げた大川周明のことは少年のころからどっかでひっかかっていた。

著名な学者だったのに、東京裁判では前に坐っていた被告東條元首相の頭をピシャピシャと何度も叩いて周りの度肝を抜いた。

裁判長の指示で検査の結果脳梅毒と判って、裁判免除。だが免除されたら普通に戻った、あの振る舞いは「演技」だったのだと理解してきた。

平凡社の世界大百科事典には次のようにしか出ていない。

{ファシズム運動家,思想家。山形県に生まれる。旧制第五高等学校を経て,東京帝大文学部でインド哲学を学ぶ。1911年卒業。

のち,植民地インドの現状に関心をもち,反欧米的思考を強める。18年,満鉄に入社し,翌年東亜経済調査局調査課長。20年,拓殖大学教授となる。

1918年,米騒動の衝撃のなかで生まれた老壮会に入会。19年,北一輝(死刑)とともに〈国家改造〉を目ざす猶存社を結成。

23年,北と袂(たもと)を分かって後,翌24年,行地社を創立。啓蒙宣伝活動にあたるとともに,軍部との関係を深める。

29年東亜経済調査局が独立の財団法人となると理事長に就任。31年,陸軍桜会によるクーデタ計画,三月事件に関与。翌32年2月,神武会を組織し,軍部と結びついた大衆的ファシズム運動を目ざす。五・一五事件に連座して反乱罪により禁錮5年に処せらる。37年10月,仮出所。

以後,法政大学教授(大陸部長)をつとめるとともに,《日本二千六百年史》(1939),《近世欧羅巴植民史》(1941),《米英東亜侵略史》(1942)などを刊行。

敗戦後,A 級戦犯として逮捕されたが,精神障害を起こし,裁判から除外,病棟で《コーラン》の翻訳に没頭する。1948年末,不起訴釈放。自伝《安楽の門》(1951)を著す。《大川周明全集》全7巻がある。}
       

「ウィキぺデイア」を近年知ったので検索してみたら出てきた。

この記事を書いた方のお名前は知らないが、肝腎なことは後半の出てく
る。

大川 周明(おおかわ しゅうめい、1886年12月6日 - 1957年12月24日)は、日本の思想家。 1918年、東亜経済調査局・満鉄調査部に勤務し、1920年、拓殖大学教授を兼任する。

1926年、「特許植民会社制度研究」で法学博士の学位を受け、1938年、法政大学教授大陸部(専門部)部長となる。

その思想は、近代日本の西洋化に対決し、精神面では日本主義、内政面では社会主義もしくは統制経済、外交面ではアジア主義を唱道した。晩年、コーラン全文を翻訳するなどイスラーム研究でも知られる。

山形県酒田市出身。荘内中学(現山形県立鶴岡南高等学校)、第五高等学校を経て、東京帝国大学文科大学卒(印度哲学専攻)。荘内中学時代は、庄内藩の儒者・角田俊次宅に下宿し、このときに漢学の素養を身につけた。五高時代には、栗野事件で活躍した。

インドの独立運動を支援。ヘーラムバ・グプタを一時期自宅に匿うなど、インド独立運動に関わり、『印度に於ける國民的運動の現状及び其の由来』(1916年)を執筆して、インドの現状を日本人に伝えるべく尽力した。

また、亜細亜主義の立場に立ち、研究や人的交流、人材育成につとめ、また、亜細亜の各地域に於ける独立運動や欧米列強の動向に関して『復興亜細亜の諸問題』(1922年)やアブドゥルアズィーズ・イブン=サウード、ケマル・アタチュルク、レザー・パフラヴィーらの評伝集である『亜細亜建設者』(1941年)を執筆した。

一方、日本精神復興を唱えて佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠らの評伝をまとめ『日本精神研究』(1924年)を執筆。日本史を概観する書物として『日本二千六百年史』(1939年)を著す。

同書は大ベストセラーとなるが、当時賊徒とみなされていた北条義時、北条泰時、足利尊氏・直義兄弟を称賛するなどの内容があったため批判され、改訂を余儀なくされる。

大正・昭和期に、北一輝、満川亀太郎らと親交があり、猶存社、行地社、神武会を結成。三月事件・十月事件にも関与し、五・一五事件では禁錮5年の有罪判決を受け服役。

またルドルフ・シュタイナーの社会三層化論を日本に紹介している(「三重国家論」として翻訳)。

満州事変に際しては、在満邦人と満州人民を政治的横暴から救うという視点から、満州国の建国を支持し「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。

北守南進を主張していたが、それはあくまでも「日中連携」を不可欠のものとしており、日中間の戦争を望むものではなかった。日中戦争が勃発時大川は獄中にあった。

太平洋戦争については、「最後の瞬間までこの戦争を望まず、1940年に、日本がもっと準備を整える時まで、戦争を引き延ばそうと努力した」(『国際検察局尋問調書』第23巻)と記述があるとおり、肥田春充とともに日米戦回避のため開戦前夜まで奔走した。

太平洋戦争終戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴され、東京裁判に出廷した。

大川は水色のパジャマを着用。素足に下駄を履いて出廷した。開廷後、パジャマを脱ぎ始めたり、休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いたり(東條は最初は苦笑していたが何度も叩かれたため睨みつけたという)、

「インダー、コメンジー!(「Inder kommen Sie! 独訳:インド人よ来たれ!」、アメリカはインディアンを収奪したことを主張していたという説がある)」、

または「イッツア、コメディ!(「It's a comedy! 英訳:これは茶番だ」、戦勝国による裁判に対する不公正を主張した説がある)」、「アイ、アイ、シンク」(I,I think 英訳私は、私は思う)と奇声を発するなど、常識を逸した行動をとり、法廷は爆笑の渦に巻き込まれた。

15分間の休廷中、オーストラリアのウェッブ裁判長は大川周明を精神異常と判断し、1947年4月9日に、大川を正式に裁判から除外した。

大川は米軍病院に入院させられ(のち東大病院、松沢病院に転院)、梅毒による精神障害と診断された。その後の精神鑑定で異常なしとされたが、裁判には戻されず、松沢病院での入院が続いた。

入院中、以前より念願であったコーラン全文の翻訳を完成する。なお東京裁判終了後まもなく退院。東京裁判で起訴された被告人の中では、裁判終了時に存命していて有罪にならなかった唯一の人物となった。

その後は、神奈川県愛甲郡中津村の自宅で過ごし、「瑞穂の国」を築く為の農村復興運動に取り組んだ。大川の墓銘は歴史学者平泉澄の揮毫。

東條の頭を叩いたのは狂人と思わせる「演技」。裁判長は騙された。
                  2011・12・08


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