2011年12月16日

◆流行歌手の晩年様々

渡部 亮次郎


ブログに「誰か昭和を想わざる」があって昭和のはじめから今に至る歌謡曲とその時代背景を厖大な量で論述している。だが著者名は明らかにされていない。信用はおける。
http://www.geocities.jp/showahistory/music/history.html

この中で様々な流行歌手の経歴も詳しく紹介されているが、興味を持ったのは、病名と墓地を詳しく述べていることである。私(1936年=昭和11年生まれ)の興味を持った歌手の晩年を引用させていただいた。見出しは西暦だが、本文中の年号はほぼ「昭和」である。

赤坂小梅(1911-1992)

福岡の田川郡川崎町の生まれ。9人兄妹の末っ子。大正9年、16歳のときに八幡で梅岩の名前で芸者となる。昭和4年に藤井清水、野口雨情に認められレコードデビュー。

佐藤栄作、岸信介など著名人のお座敷も多くつとめ、紅白歌合戦にも数回出場、恰幅のいい体型が特徴的だった。56年に国立劇場の公演を最後に引退後は、晩年を千葉の老人別荘地で過ごし、民謡教室なども主宰した。

平成4年1/17午後7時24分、心不全で千葉県鴨川市の病院で死去。本名は向山コウメ。住まいは千葉県館山市安房自然村だった。葬儀は館山市の能忍寺で行われた。

暁テル子(1921-1962)

浅草出身。松竹少女歌劇団卒業後は古川緑波一座や東宝、松竹の舞台で活躍。脚線美が話題で、26年「ミネソタの卵売り」「東京シューシャインボーイ」で大ヒット。笠置シヅ子との軋轢は有名。「テリー」の愛称で親しまれた。

33年に肺を患ってからは事実上、引退状態となった。37年7/20午前2時、中野区江古田4丁目の自宅で心臓麻痺で死去。本名は関根ひさ子。天津乙女(1905-1980)

神田出身。大正7年に宝塚に入団。12歳にして宝塚の東京出身団員第1号に。「すみれの花咲く頃」のオリジナル盤を吹き込む。「引退公演の最中にファンの結婚反対署名が殺到した事から破談に。

その後はファンのため、生涯独身を貫いた。54年10/18の「鏡獅子」が最後の公演となった。55年5/30午後7時、急性心不全で西宮の香雪記念病院で死去。本名は鳥居栄子。住まいは兵庫県宝塚市武庫山2丁目。谷中霊園に眠る。

淡谷のり子(1907-1999)

青森の旧家の生まれだが大火で没落、ヌードモデルなどで家計を助けながら東洋音楽学校を首席で卒業。「ブルースの女王」と呼ばれるようになる。ある時に自分のテープを聴いて「こんな歌ならお客さんに聴かせられない」とステージに上がるのを拒否したともいう。

平成6年には一過性吐血症で倒れる。自宅で妹と2人での車椅子生活の中、11年9/22午前4時30分、老衰で大田区上池台2丁目の自宅で死去。本名は淡谷のり。猛暑がこたえたという。一時期、ピアニストの和田肇と結婚、和田との娘ではないが一女がある事はまったく知られていない。

長女は同じ敷地で暮らしていた。タンゴやシャンソンを日本に紹介した功績もあり、礼儀正しい反面、人にも厳しかった。また美容器具のゲルマニウム美容ローラーを片時も離す事もなかった。

井口小夜子(1914-2003)

東京出身。童謡歌手として昭和10年にデビューし、14年に武蔵野音楽学校を卒業。流行歌や軍歌などを吹き込み、36年の「紅孔雀の歌」で知られる。平成15年11/9午後5時35分、急性呼吸不全で死去。本名は田沼とみ子。住まいは神奈川県藤沢市鵠沼桜が岡4丁目だった。

池真理子(1918-2000)

京都出身。宝塚歌劇団で三日月美夜子の名前で活躍。昭和21年に「愛のスウィング」がヒットするや、スウィングの女王として人気を得る。アンデスの子供にミルクを飲ませる運動などに従事。

平成12年5/28、都内のホテルのステージで「センチメンタル・ジャーニー」を歌った直後に倒れ、そのまま5/30午後10時24分、クモ膜下出血で還らぬ人となった。 住まいは世田谷区豪徳寺1丁目だった。

石田一松(1902-1956)

広島の府中出身。演歌師として活躍。1946年に衆議院選挙に当選し、代議士として4期つとめる。その後はラジオや舞台の出演をこなしていた1956年1/11午後7時52分、豊島区雑司ヶ谷3丁目の自宅で、胃ガンで死去。

市丸(1906-1997)

19歳で長野の松本より上京し、浅草で芸者に。清元、宮園節、小唄など邦楽を身に付け、昭和6年「花嫁東京」で歌謡界にデビュー。同年には「茶切節」がヒット。

8年、中山晋平作曲「天竜下れば」が大ヒット。当時の歌手には珍しい美貌から、「歌より先に顔で評価されて損」などと当時の一般紙で書かれたりもしている。勝太郎との不和は有名であった。

ただ勝太郎が亡くなる前には、病室に見舞うなど、良き「戦友」として最後はお互いを認識していたらしい。柳橋近くの瀟洒な邸宅は、たまに料亭と間違えられる造りであった。

晩年は歌舞伎界の中村一門に推挙され、江戸小唄中村流の17代家元として後進の指導にあたるかたわら、歌番組にも出演。平成9年2/17午後3時44分、呼吸不全のため台東区の病院で死去。本名は後藤まつゑ。住まいは台東区柳橋1丁目だった。

伊藤久男(1910-1983)

福島の本宮町出身。本名は四三男(しさお)だが、訛りから芸名を久男とする。男性的な歌唱は当時の時局にぴったりで、「露営の歌」や「父よあなたは強かった」「暁に祈る」など数多くの軍歌を吹き込んだ。昭和55年頃より糖尿病が悪化してステージに立てなくなり、56年秋より入院、そのまま事実上、歌手活動を引退。

また1年間を通じて10月から3ヶ月だけ禁酒をするという、独特な健康術を毎年行っていた。58年4/25午後11時40分、糖尿性肺水腫で中野区の沼袋病院で死去。その死に際して霧島昇は「同郷人でよく一緒に飲んで喧嘩した」と思い出を語った。福島県本宮町の石雲寺に眠る。

上原敏(1908-1944)

秋田県大館出身。専修大学では野球部のエース。昭和11年に歌手デビュー。

「青空道中」「旅笠道中」「妻恋道中」を、ポリドールが敢えて新人売り出しのために上原に歌わせたところ、25万枚の大ヒットとなった。「流転」「裏町人生」「上海だより」とヒットを連発、特に女性に絶大な人気を博した。

しかし18年に出征。赤紙(召集令状)が来た時、ステージで「男散るなら」を熱唱し、それがファンの前に見せた最後の姿となった。歌手として慰問活動にまわる道もあったが、一兵卒としての扱いを本人自ら希望し、激戦地へ。

昭和19年にニューギニアで戦病死。従来のアイタペ戦病死説は上原の部隊の生き残りの軍医や、上原の周辺を取材したライターなどによって否定されている。

上原の戦病死の頃、既にアイタペは米軍の手中に陥落しており、上原の部隊はウエワクで反攻の機会をうかがっていたという。東部ニューギニア戦線の生還者はわずか1割で、苛烈な戦場だったために、生存者も余り当時の話を語りたがらないため、上原の最後はなお謎が多い。

宇都美清(1928-1973)

宇都宮出身。昭和21年デビュー。渡辺はま子とのデュエット「ああモンテンルパの夜は更けて」で知られる。36年から作曲も行った。48年3/4午後7時、肝硬変で都立荏原病院で死去。本名は吉田清男。

エト邦枝(1916-1987)

浅草出身。大蔵省に勤務しながらクラシックを勉強。帝国音楽学校を卒業し、昭和22年に歌手デビュー。30年「カスバの女」を吹き込み、42年になってヒットする。

観光バスのガイドの指導を10年つとめた後、晩年は自宅でカラオケ教室を主宰した。62年3/13午前10時45分、大動脈瘤破裂で世田谷区の長谷川病院で死去。本名は笠松エト。

榎本健一(1904-1970)

麻布出身。日本の喜劇王として君臨した。27年に右足を脱疽、32年には1人息子(26)が死亡、37年暮れには右足切断と幸福な晩年ではなかった。44年12/8に風邪を引き、治りが遅く衰弱してきたのだが、入院を拒否、

45年1/1の朝には新宿区市谷加賀1丁目の自宅で雑煮に餅を3個、酒をお猪口で1杯飲むなどしたが、夜になって容態が急変、そのまま入院となった。1/4夜より昏睡状態が続き、1/7午後2時50分、駿河台の日大病院で肝硬変のために死去、危篤とされてから7時間後の事だった。

菊田一夫、金語楼、徳川夢声、中村是好、藤原釜足、南利明、森川信、由利徹、笠置シヅ子、森光子、大宮敏光、益田喜頓、コロムビアトップ、坂本九などが病院に詰めかけ、回復を祈ったが、ならなかった。西麻布の長谷寺に眠る。(つづく)

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