2011年12月17日

◆流行歌手の晩年(続)

渡部 亮次郎


榎本美佐江(1924-1998)

川口出身。昭和21年にデビュー。28年「お俊恋唄」をヒットさせる。その後「十三夜」をリメイク。30年にプロ野球の金田正一と結婚し引退するが、38年に離婚してカムバックする。

平成10年9/23午前0時30分、大腸ガンで新宿区の病院で死去。住まいは渋谷区西原1丁目のマンション。葬儀は大久保の金龍寺で行われた。

江利チエミ(1937-1982)

入谷に4人兄妹の末っ子として生まれる。父は浅草のピアノ弾きでクラリネットも得意な久保益雄、母は浅草で映画スターだった柴崎ゆき子、レコードでアメリカの流行歌を覚えた。

27年、15歳で少女歌手として「テネシー・ワルツ」のカバーでデビューし、これが20万枚のヒット。芸名の江利チエミは進駐軍キャンプまわり時代の「エリー」の愛称を「江利」とし、これに本名である久保チエミの「チエミ」をつなげたもの。

美空ひばり、雪村いづみと「三人娘」として人気を得、女優としても活躍した。34年に俳優の高倉健と結婚。46年に離婚、47年には芸術祭賞優秀賞を受賞する。晩年は寂しい一人暮らしで、知人にいま観ているテレビ番組の事などで電話をかけてきたほどであったという。

57年2/13未明、港区高輪2丁目のマンション4階の自室で吐瀉物を喉に詰めて窒息死。同月初めにファンであった近鉄のキャンプ地である高知に慰問した際より風邪気味だったため、2/12は、夕方に熊本から帰京し、自宅で寝ていた。

午後4時過ぎに泥酔して帰宅したのを目撃されている。その後、一旦寝た後にウィスキーの水割りを3、4杯飲んだ形跡があった。

2/13、午後4時過ぎから帯広での仕事で羽田空港へ向かう用事があり、午後3時にマネージャーの妻が迎えに行ったところ、自宅10畳間のベッドの上で赤と黒のジャンパーに赤のパンタロン、赤のブラウス姿で布団を胸まで被り、うつ伏せで死んでいるのを発見された。一面には吐いた跡があった。

三人娘として扱われていた美空ひばりは、埼玉県深谷の公演先で電話で一報を聞き「いたずら電話と思った」「朝6時半にゴム風船が割れるような音で目覚めた」とも語った。雪村いづみは札幌のホテルで電話で一報を聞いた。

親しくしていた清川虹子は新宿コマでの公演終了後に訃報を聞かされ「うそだー」と泣き崩れた。世田谷の法徳寺に眠る。林真理子の「テネシー・ワルツ」はモデル小説である。

笈田敏夫(1925-2003)

ベルリン生まれ。父はピアニストの笈田光吉。昭和20年よりハワイアンバンドを転々とした後、28年にレコードデビュー。32年に慶応大学を卒業し、33年に映画「嵐を呼ぶ男」に出演。

36年に恐喝で逮捕。宇治かほるは2人目の妻だったが死別している。戦後を代表するジャズ歌手として活躍。愛称は「ゲソ」。平成6年にニューヨーク公演、7年には勲四等瑞宝章を受章。15年9/2正午、腎盂ガンで死去。

近江俊郎(1918-1992)

東京出身。武蔵野音楽学校を教授と喧嘩して中退。戦後、「悲しき竹笛」「山小舎の灯」がヒット。23年の「湯の町エレジー」の大ヒットでスターダムに。51年には歌手生活40周年で全国縦断リサイタルを開き、歌手を引退。

その後は大蔵映画の副社長となったり、「家族対抗歌合戦」のコメンテーターなどで死の直前まで活躍した。

人柄の良さでも知られ、近江を悪く言う関係者は皆無。平成2年に前立腺ガンとなり、回復したが、平成4年7/5午後7時5分、肝不全で港区の病院で死去。本名は大蔵敏彦。
              
大橋節夫(1925-2006)

昭和22年、慶応大学を卒業し、23年に大橋節夫とハニー・アイランダースを結成。「小さな竹の橋の下で」「倖せはここに」などでヒットを飛ばし、愛称は「オッパチ」。平成18年6/7午後8時37分、呼吸不全で大田区の病院で死去。

岡晴夫(1916-1970)

木更津出身。上野松坂屋の店員を経て、流しをしていたが、酒場で偶然に東海林太郎から誉められた事をきっかけとして、昭和13年に歌手デビュー。爆発的な人気を誇ったのは戦後になってからであった。「オカッパル」の愛称で「東京の花売娘」「青春のパラダイス」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」などがヒット。

春日八郎の「お富さん」は元々、岡晴夫のために書かれたものだが、岡の移籍で立ち消えになったという経緯がある。しばらく低迷し、38年に「南の島に雪が降る」で再びカムバック。

死の直前の44年にテレビ出演をしているが、関係者いわく、声も容姿も別人で唖然としたとの感想が大半を占めている。45年5/19午後3時36分、肝臓障害で千代田区の東京警察病院で死去。本名は佐々木辰男。江東区の本立院に眠る。 

音丸(1906-1976)

麻布出身。芸者でも何でもなく、民謡好きの下駄屋の内儀であった。芸名は音は丸いレコードから、という意味。10年に「船頭可愛や」がヒット「満洲想えば」「下田夜曲」「博多夜船」がヒット。

23年には人吉を訪れ、「五つ木の子守唄」を見つけ出した。24年にキングに移籍、「五つ木の子守唄」を初めてレコード化した。後に人吉市長から感謝状を受けている。51年1/18午後0時半、世田谷区代田1丁目のマンションの自宅で急性心不全で死去。

小畑実(1923-1979)

朝鮮半島の平壌出身だったが、当時は自ら朝鮮人の出自を明かす事は歌手にとって致命的だったため、秋田出身と公表していた。在日社会などでは出自は広く知られていたが、多くの日本人には死ぬまで秋田出身とされ、訃報にも韓国籍であった事実は一切、伏せられている。14歳で来日「婦系図の歌」「勘太郎月夜唄」が戦時下ながらヒット。

戦後は「長崎のザボン売り」「星影の小径」などヒットを連発。時の韓国大統領の李承晩とは実懇で、献金を欠かさなかったという話もある。32年に紅白で「高原の駅よ、さようなら」を歌い引退表明。

54年4/24午後4時40分、千葉県野田市の紫カントリーすみれコースで、ゴルフの最中に倒れ、同市内の荒川外科病院に運ばれたが午後5時10分、急性心不全で死去。当日は午前10時に1人でコースを訪れ、初対面の男性3人とまわっていた。

1ラウンドハーフの16番ロングホールのセカンドショットで倒れ、キャディが駆けつけた時には意識不明だった。このゴルフ場には月に5、6回来ていたという。住まいは港区六本木5丁目のマンションだった。大変な愛妻家でもあり、年を取っても人前でも新婚当初と変わらぬ様子を見せたという。

織井茂子(1926-1996)

目黒生まれ。少女時代から童謡歌手として活躍。作曲家大村能章の弟子。昭和28年、松竹映画「君の名は」の主題歌「君の名は」「黒百合の歌」が大ヒットとなる。33年には「夜が笑っている」がヒット。平成8年1/23午前9時24分、膵腫瘍で港区の病院で死去。本名は伊東茂子。住まいは目黒区洗足1丁目だった。(つづく)

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