白井繁夫
今回は、前に訪ねた岡田国神社(地図Z:2番)から南へ約0.5kmあたりにある天神山南側で発掘された、「馬場南遺跡」(地図Z:3番)を訪ねます。
この「馬場南遺跡」は、実は発掘された大量の出土品の中から、そこに建立されていたのは『神雄寺―カンノオジ』だと分かったのです。ところがこれに関する記録は奈良時代から全くなく、謂わば古代史上「謎の寺」です。その訳は追々。
この散策のあとは、「記紀の物語に纏わる神社と、その神社の参拝道入口にある法然上人の念仏石」などに向かおうと思います。
地図Z:http://chizuz.com/map/map118310.html
さて、謎の寺『神雄寺―カンノオジ』の所在地だったと、後に分かった「馬場南遺跡」のことに触れます。
発掘のきっかけは、京都府埋蔵文化財研究センターと木津川市教育委員会が、「学研都市開発」(木津中央区開発)のために、平成19年から事前調査が開始され、平成23年まで5次に亘って行われたもので、偶然にも考古学上の貴重な発掘となりました。
もしこの発掘が行われなかったら、この「馬場南遺跡」が奈良時代に重用された筈の『神雄寺』跡地だとは分かっていません。と云うのはこの地に『神雄寺』が在ったという古代からの「記録」が何故か総て「消滅」され、残されていなかったからです。
「謎の寺」と称される理由はここにあります。
この「謎」が解けたのは、発掘の際、ここが『神寺、山寺、神尾』など云われる『神雄寺』と記述された10枚の墨書土器が出土したことからでした、これがこの地に『神雄寺』があったことをはっきり裏付けたのです
更に度肝を抜かれたのは、奈良時代の万葉集<2205番 秋雑歌の[題詞](詠黄葉)>の「木簡」が、出土したことでした。
何と、この「木簡」の出土が、滋賀県紫香楽宮跡と奈良県石神遺跡に次いで、これが全国で3例目だったからです。
その「木簡」には、こう詠まれています。
<秋芽子乃 下葉赤 荒玉乃 月之歴去者 風疾鴨
秋萩の 下葉もみちぬ あらたまの 月の経ぬれば 風をいたみかも>と詠まれます。
訳すると、 (秋萩の下の葉まで色づいてきた・・・・・月日がたって風が強くなったからだろうか・・・・・)だそうです。きっとこの場所で、優雅な曲水宴が催行されていたのではないでしょうか。
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写真:馬場南遺跡:文廻池の東、背後の天神山裾の谷合の神雄寺跡を遠望
貴重な出土品はそれだけではありません。
いずれも奈良時代の文献にない寺院の品々の出現ばかりでした。「正倉院三彩」に匹敵する四足の火舎型(かしゃかた)香炉(径20cm)を始めとした多くの種類と、大量の奈良三彩(破片)や、1万枚近くの灯明皿などでした。
この出土品した大量の陶器、土師器の数量や種類等にも驚きますが、更なる驚きは、「土製楽器の腰鼓」の出土でした。
『腰鼓』とは、腰の上に置いて敲いた古代の鼓。中国では唐代の墓から出土した例が有り、日本では正倉院御物の三彩品だけです。ところがこの遺跡で須恵器の腰鼓が出土したのですから、出土の価値が如何に素晴らしいかお分かりになると思います。
出土した大量の土師器の皿には、1カ所のみに煤が付いており、奈良時代の東大寺の『燃灯供養』同様、その都度、数千枚の新品の皿を使用して暗夜に灯りを燈す壮大な仏教行事を催行したと想像されます。
さて発掘された本堂は、約4m四方の小さい仏堂です。(仏堂内:約4m×3.6mの須弥壇の周辺には等身大の塑像の四天王像(断片)、塼仏など有りましたが、みんな高熱の火を被っていました)。
南側には仏事を行う礼堂があり、本堂の近くには塔跡がありました。一連の伽藍配置から儀礼空間は本堂、塔から南側の曲水状池跡が「聖域」で、東側は「俗地」と区別されていました。でも全て焼失したのか、この遺跡にはその後も寺院が再建されていません。
そこで最大の関心事は、どうして総ての記録が抹消されたのかということです。
それはこのお寺を巡って起きた恐らく朝廷か貴族の間の「紛争・政争」が原因で、当時の権力者の指示で「強制抹消」されて仕舞ったのではないと思われます。本当の理由は未だにわかっていません。「謎の寺」そのものです。
ところでこの「遺跡」の地形をよく見ますと、平城宮や東大寺から奈良山越えで泉津に至る奈良時代の官道(上津道.中津道)沿いにあります。聖武天皇の「恭仁宮」の中間に(それぞれ約5km地点)ありす。その辺りには貴族や豪族の屋敷も沢山あったそうです。
ところが、ここは聖武天皇の信任が厚かった橘諸兄の支配地域だったのです。もし、この地形が権力者同士の紛争を巻き興し、『神雄寺』を滅却させ、記録の総てを「抹消」せざるを得なかった背景が、この地形に絡んでいたのではないかとも考えられるのです。
さて、この「馬場南遺跡」(神雄寺跡)のまわりは、今は区画整理事業のため何も見えませんが、掘り出された出土品によって、記録には一切無かった1300年前の奈良時代の様子が、浮かび上がって来ました。以下整理して見ました。
@この遺跡は730〜780年代(奈良時代)に興りましたが、長岡京、平安京への遷都と共に、歴史上の記録から消えたと思われます。しかし、記録に無い『神雄寺』が本堂、礼堂、塔を備えた、伽藍建築の寺院名で出て来たのです。
A『大殿』と記された墨書土器の出土によって、奈良時代の高位の貴人の関係する寺院と 思われます。
B春には灌仏会(花まつり)が行われ、その証に径150cmの八稜形の台座(灌仏盤:誕生仏の台座)の出土。秋には曲水宴が行われ、万葉の歌木簡に詠われている優雅な情景推測されます。
C聖武天皇の御安泰、遣唐使の無事祈願:D大仏開眼会(天平勝宝4年:752年)E聖武天皇のご葬儀(756年)、盂蘭盆会(天平神護元年:765年)などの盛大な仏教行事の燃灯供養に、その都度ここで数千枚の灯明皿が使用されたと推測されます。
以上のことから、壮大な仏教行事などが国家行事と同じ規模で催行されたと推測されるのです、こうした出土品の検証が進めば。この「遺跡」はきっと近い将来、国の史跡に指定されると私は期待しています。
◆参考文献:明日香風No119 不思議な奈良三彩の謎を解く 京都橘大学教授
弓場紀知
:天平びとの華と祈り −謎の神雄寺― 府埋文研究センター
上田正昭
:馬場南遺跡(神雄寺跡)発掘調査 現地説明会資料(平成20、21、22年)
木津川市教育委員会
さて、「馬場南遺跡」を遠望して文廻池の南西から井関川の西岸道を南東へ少し歩き、右(南)に折れて行き荒渕池の西側を通り過ぎ、右『西』に曲がると、「奈良街道」(天理街道:府道754号)に出ます。
その交点の右(北)に、「幣羅坂神社(地図Z:4番)の鳥居とその少し北に法然の念仏石」が祀られているのです。
ところで岡田国神社からここまでの間、井関川沿いに天神池、文廻池、荒渕池と奈良街道沿いに3個の池が有りました。
これらの池は古代より明治の初めまで、泉津に到着した材木を運ぶため、藤原時代より『奈良時代の東大寺向けの材木も含め』、この川と池を利用して運搬するのに大いに役立ってきたのです。
このほかのルートも同様ですが、もう少し踏み込んだ内容は後日、書いてみます。(完)