2011年12月29日

◆流行歌手の晩年(続)

渡部 亮次郎


榎本美佐江(1924-1998)

川口出身。昭和21年にデビュー。28年「お俊恋唄」をヒットさせる。その後「十三夜」をリメイク。30年にプロ野球の金田正一と結婚し引退するが、38年に離婚してカムバックする。

平成10年9/23午前0時30分、大腸ガンで新宿区の病院で死去。住まいは渋谷区西原1丁目のマンション。葬儀は大久保の金龍寺で行われた。

江利チエミ(1937-1982)

入谷に4人兄妹の末っ子として生まれる。父は浅草のピアノ弾きでクラリネットも得意な久保益雄、母は浅草で映画スターだった柴崎ゆき子、レコードでアメリカの流行歌を覚えた。

27年、15歳で少女歌手として「テネシー・ワルツ」のカバーでデビューし、これが20万枚のヒット。芸名の江利チエミは進駐軍キャンプまわり時代の「エリー」の愛称を「江利」とし、これに本名である久保チエミの「チエミ」をつなげたもの。

美空ひばり、雪村いづみと「三人娘」として人気を得、女優としても活躍した。34年に俳優の高倉健と結婚。46年に離婚、47年には芸術祭賞優秀賞を受賞する。晩年は寂しい一人暮らしで、知人にいま観ているテレビ番組の事などで電話をかけてきたほどであったという。

57年2/13未明、港区高輪2丁目のマンション4階の自室で吐瀉物を喉に詰めて窒息死。同月初めにファンであった近鉄のキャンプ地である高知に慰問した際より風邪気味だったため、2/12は、夕方に熊本から帰京し、自宅で寝ていた。

午後4時過ぎに泥酔して帰宅したのを目撃されている。その後、一旦、寝た後にウィスキーの水割りを3、4杯飲んだ形跡があった。

2/13、午後4時過ぎから帯広での仕事で羽田空港へ向かう用事があり、午後3時にマネージャーの妻が迎えに行ったところ、自宅10畳間のベッドの上で赤と黒のジャンパーに赤のパンタロン、赤のブラウス姿で布団を胸まで被り、うつ伏せで死んでいるのを発見された。一面には吐いた後があった。

三人娘として扱われていた美空ひばりは、埼玉県深谷の公演先で電話で一報を聞き「いたずら電話と思った」「朝6時半にゴム風船が割れるような音で目覚めた」とも語った。雪村いづみは札幌のホテルで電話で一報を聞いた。

親しくしていた清川虹子は新宿コマでの公演終了後に訃報を聞かされ「うそだー」と泣き崩れた。世田谷の法徳寺に眠る。林真理子の「テネシー・ワルツ」はモデル小説である。

笈田敏夫(1925-2003)

ベルリン生まれ。父はピアニストの笈田光吉。昭和20年よりハワイアンバンドを転々とした後、28年にレコードデビュー。32年に慶応大学を卒業し、33年に映画「嵐を呼ぶ男」に出演。36年に恐喝で逮捕。宇治かほるは2人目の妻だったが死別している。

戦後を代表するジャズ歌手として活躍。愛称は「ゲソ」。平成6年にニューヨーク公演、7年には勲四等瑞宝章を受章。15年9/2正午、腎盂ガンで死去。

近江俊郎(1918-1992)

東京出身。武蔵野音楽学校を教授と喧嘩して中退。戦後、「悲しき竹笛」「山小舎の灯」がヒット。昭和23年の「湯の町エレジー」の大ヒットでスターダムに。

51年には歌手生活40周年で全国縦断リサイタルを開き、歌手を引退。その後は大蔵映画の副社長となったり、「家族対抗歌合戦」のコメンテーターなどで死の直前まで活躍した。

人柄の良さでも知られ、近江を悪く言う関係者は皆無。平成2年に前立腺ガンとなり、回復したが、平成4年7/5午後7時5分、肝不全で港区の病院で死去。本名は大蔵敏彦。
              
大橋節夫(1925-2006)

昭和22年、慶応大学を卒業し、23年に大橋節夫とハニー・アイランダースを結成。「小さな竹の橋の下で」「倖せはここに」などでヒットを飛ばし、愛称は「オッパチ」。18年6/7午後8時37分、呼吸不全で大田区の病院で死去。

岡晴夫(1916-1970)

木更津出身。上野松坂屋の店員を経て、流しをしていたが、酒場で偶然に東海林太郎から誉められた事をきっかけとして、昭和13年に歌手デビュー。爆発的な人気を誇ったのは戦後になってからであった。

「オカッパル」の愛称で「東京の花売娘」「青春のパラダイス」「啼くな小鳩よ」「憧れのハワイ航路」などがヒット。

春日八郎の「お富さん」は元々、岡晴夫のために書かれたものだが、岡の移籍で立ち消えになったという経緯がある。しばらく低迷し、38年に「南の島に雪が降る」で再びカムバック。

死の直前の44年にテレビ出演をしているが、関係者いわく、声も容姿も別人で唖然としたとの感想が大半を占めている。45年5/19午後3時36分、肝臓障害で千代田区の東京警察病院で死去。本名は佐々木辰男。江東区の本立院に眠る。 

音丸(1906-1976)

麻布出身。芸者でも何でもなく、民謡好きの下駄屋の内儀であった。芸名は音は丸いレコードから、という意味。10年に「船頭可愛や」がヒット「満洲想えば」「下田夜曲」「博多夜船」がヒット。

昭和23年には人吉を訪れ、「五つ木の子守唄」を見つけ出した。24年にキングに移籍、「五つ木の子守唄」を初めてレコード化した。後に人吉市長から感謝状を受けている。51年1/18午後0時半、世田谷区代田1丁目のマンションの自宅で急性心不全で死去。

小畑実(1923-1979)

朝鮮半島の平壌出身だったが、当時は自ら朝鮮人の出自を明かす事は歌手にとって致命的だったため、秋田出身と公表していた。在日社会などでは出自は広く知られていたが、多くの日本人には死ぬまで秋田出身と
され、訃報にも韓国籍であった事実は一切、伏せられている。14歳で来日「婦系図の歌」「勘太郎月夜唄」が戦時下ながらヒット。

戦後は「長崎のザボン売り」「星影の小径」などヒットを連発。時の韓国大統領の李承晩とは実懇で、献金を欠かさなかったという話もある。32年に紅白で「高原の駅よ、さようなら」を歌い引退表明。

54年4/24午後4時40分、千葉県野田市の紫カントリーすみれコースで、ゴルフの最中に倒れ、同市内の荒川外科病院に運ばれたが午後5時10分、急性心不全で死去。当日は午前10時に1人でコースを訪れ、初対面の男性3人とまわっていた。

1ラウンドハーフの16番ロングホールのセカンドショットで倒れ、キャディが駆けつけた時には意識不明だった。このゴルフ場には月に5、6回来ていたという。住まいは港区六本木5丁目のマンションだった。大変な愛妻家でもあり、年を取っても人前でも新婚当初と変わらぬ様子を見せたという。

織井茂子(1926-1996)

目黒生まれ。少女時代から童謡歌手として活躍。作曲家大村能章の弟子。昭和28年、松竹映画「君の名は」の主題歌「君の名は」「黒百合の歌」が大ヒットとなる。33年には「夜が笑っている」がヒット。平成8年1
/23午前9時24分、膵腫瘍で港区の病院で死去。本名は伊東茂子。住まいは目黒区洗足1丁目だった。

神楽坂はん子(1931-1995)

東京出身。16歳から神楽坂で芸者をしていたが、昭和26年にコロムビアの伊藤部長に連れられた古賀政男の座敷で「アリラン」を披露した事から気に入られ、27年に「こんな私じゃなかったに」でデビュー。

その後、「ゲイシャワルツ」の大ヒットを皮切りに、「セ・シ・ボン」を直訳した28年の「見ないで頂戴お月さま」、オペラの手法をヒントにした掛け合い歌の「こんなベッピン見たことない」などのヒットを連発した。

晩年は消息が聞こえなくなり、平成7年6/10、川口の武南病院で肝臓ガンで窮死。本名は鈴木玉子。死去の事実は1ヶ月近く近親者以外は誰にも知らされなかった。

笠置シヅ子(1914-1985)

香川出身。昭和22年夏に録音した「東京ブギウギ」が爆発的なヒットとなり、ブギの女王として、そのパワフルな歌声に身振りで一世を風靡。「買物ブギ」の作詞者の村雨まさをは服部良一のペンネームである。

現在、市販されている「買物ブギ」のラスト近くの「わて聞こえまへん」の歌詞は「わてつんぼで聞こえまへん」なのだが、ある時期よりの復刻では意図的に歌詞を削除したものが出回っている。

懐メロブームにも「私は時代の歌手だった」と再登場を拒否し、歌を再び歌う事はなかった。潔癖症でもあり、自宅の庭でのバラ栽培が趣味だった。

昭和60年3/30午後11時43分、卵巣ガンで中野区の佼成病院で死去。本名は亀井静子。住まいは世田谷区弦巻1丁目だった。杉並区の築地本願寺別院和田堀廟所に眠る。

春日八郎(1924-1991)

会津出身。東洋音楽学校に進む。昭和23年に歌手デビュー。27年、ようやく「赤いランプの終列車」がヒットする。29年には「お富さん」がヒット。この歌舞伎をモチーフにした奇妙な歌は、元々、岡晴夫が歌う筈であった。

平成3年の6月に入院、左大腿部腫瘍を切除、9/6に中野サンプラザでのキング60周年コンサートが最後のステージ。10/22午後8時38分、肝硬変と心肺機能不全で新宿区の病院で死去。

足の切断手術を本人は覚悟していたのだが、容態が急変したもの。本名は渡部実。住まいは世田谷区深沢5丁目だった。
 
川田晴久(1907-1957)

東京生まれ。昭和9年に吉本興業に入り、川田義雄の名前で、あきれたぼういず、ミルクブラザーズ、ダイナブラザーズなどを率い、「地球の上に朝が来る」などで知られる。25年には渡米した。32年6/21午後1時35分、結核性腎臓炎で牛込の厚生年金病院で死去。本名は岡村郁二郎。多磨霊園に眠る。

川田正子(1934-2006)

東京出身。8歳から音羽ゆりかご会で活躍し、昭和18年から22年にかけて、「みかんの花咲く丘」「里の秋」などを吹き込む。30年に武蔵野音大を卒業してカムバック、成人してよりも童謡歌手として活躍し、54年には森の木児童合唱団を主宰。

平成18年1/22午後8時31分、虚血性心不全で世田谷区の病院で死去。自宅で入浴後に倒れていた。本名は渡辺正子。1/21の五島列島でのステージが最後だった。夫渡辺一男は元NHKディレクター。初任地秋田。ここで主宰者と同僚だった。
           
菊池章子(1924-2002)

下谷出身。天才琵琶少女として騒がれ昭和14年に「お嫁に行くなら」で歌手デビュー。18年の「湖畔の乙女」などでヒット。戦後は「星の流れに」や、「岸壁の母」がヒット。23年には大久保徳二郎と結婚、31年に
離婚。

平成14年4/7に心不全で死去。本名は菊池郁子。住まいは品川区上大崎3丁目だった。妹も歌手で多摩幸子。孫の一仁はEvery Little Thingや浜崎あゆみの作品の作曲などを手がけている。

岸井明(1910-1965)

東京出身。歌うスターとして「タバコやの娘」などでヒット。158キロの巨漢を生かして活躍していたが、35年に眼底出血で倒れる。38年に引退。40年7/3午前5時7分、世田谷区世田谷3丁目の自宅で心臓衰弱で死去。葬儀は台東区元浅草の吉祥院で行われた。

霧島昇(1914-1984)

福島のいわき出身。新聞配達、タクシー運転見習いなどをしながら、東洋音楽学校を卒業。昭和11年にコロムビアでデビュー。13年に映画「愛染かつら」の主題歌「旅の夜風」が大ヒット。翌14年には、ミス・コロムビアと、山田耕筰の媒酌で帝国ホテルで結婚した。

またステージに出演中に赤紙が届き、客席から「若鷲の歌」の大合唱で送られたという逸話もある。戦後は「リンゴの唄」を皮切りに、夫人松原操の引退記念曲「三百六十五夜」などのヒットを飛ばした。

ステージに上がる前にはハーモニカを手に必ず楽屋で発声練習を怠らず、無口で真面目な人柄であった。大変なあがり症でこれは死ぬまで治らなかった。綺麗好きでもあり、楽屋の掃除を怠らなかったという。ステーキ好きな一方で、ジョギングもかかさなかった。

58年にテレビ東京の「年忘れにっぽんの歌」に出演したのが最後のステージ。59年1月に入院し手術、3月には退院し元気にしていたが、4/24午後4時12分、腎不全で豊島区の一心病院で死去。本名は坂本栄吾。住まいは大田区田園調布1丁目だった。港区の長谷寺に眠る。子息の坂本
紀男は東京音大教授。

楠木繁夫(1904-1956)

高知出身。東京音楽学校を学生争議で放校処分に。昭和5年に歌手デビュー「白い椿の歌」「緑の地平線」「女の階級」、「人生劇場」などが代表曲。戦中の19年には「轟沈」がヒット。戦後はヒットにめぐまれな
かった。

30年11月には札幌の電電公社の慰安演奏で軽い脳溢血となり3ヶ月の療養を余儀なくされたが、将来を悲観、京都で当たった宝くじで新築したばかりの新宿区西大久保3丁目の自宅の物置小屋で31年12/14午後3時頃に首吊り自殺。

妻の三原純子は岐阜の高山市の日赤病院で療養中だったが、ラジオニュースで夫の悲報を聞き絶句したという。当時売れっ子の歌手を含め、この自殺は芸能界に「自分もいつかは」と深刻な影を落とした。高山の法華寺には楠木と三原純子の比翼塚がある。後に老齢を迎えた古賀はこの比翼塚の前で号泣したという。

小唄勝太郎(1904-1974)

新潟生まれ、11歳で料亭の養女となり、昭和4年、13歳で上京し日本橋葭町で芸者となる。芸の葭町と呼ばれた東京屈指の花街の名を負って、5年、新内の美声を買われてレコードデビュー。

試験盤を37枚使って吹き込んだ「島の娘」が大ヒット。当時としては破格の60万枚のセールスという余りの人気ぶり。「東京音頭」、二匹目のどじょうを狙った「さくら音頭」など一連の「ハァ小唄」が次々とヒットし、一大ブームを巻き起こした。

軍医の真野博士と戦後に結婚、家庭人と歌手の二足の草鞋を生涯、履き続けた。真野博士は中国で10年の抑留生活の末の帰国だったが、ずっと思い続けていた勝太郎が銀座の喫茶店に呼び出したもの。

実は競馬好きで、競走馬まで所有していた事は知られていない。48年12月の東京12チャンネルの「なつかしの歌声」が最後のステージ。その後、風邪をこじらせ、慶応病院に入院。49年6/21午前3時、肺ガンのため、府中市八幡町2丁目の自宅で死去、葬儀は中野区の竜興寺で行われた。本名は真野かつ。

小坂一也(1935-1997)

名古屋出身。成城学園高校時代より進駐軍まわりのバンドに参加。18歳でワゴン・マスターズを結成し、昭和29年に歌手デビュー。カウボーイスタイルでカントリーなどを歌っていたが、32年には「青春サイクリング」がヒット。その後は映画、テレビなどで活躍。49年には十朱幸代と結婚、翌年に離婚。平成9年11/1午前6時10分、食道ガンで死去した。

小林千代子(1910-1976)

小樽出身。東洋音楽学校を卒業。松竹少女歌劇団で活躍。昭和7年「涙の渡り鳥」をヒットさせる。9年に夏川静江に婚約者だった新進作曲家を奪われて話題となった。51年11/25午後5時13分、膵臓壊死で赤坂病院で死去。住まいは渋谷区上原1丁目だった。 (続く)

http://www.geocities.jp/showahistory/music/history.html

この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック