2012年01月05日

◆日中友好40年の虚妄

渡部 亮次郎


今年2012年は日中関係正常化40周年だそうである。周恩来首相と関係正常化声明に調印する為、初訪中する首相田仲角栄氏に私がNHKを代表して同行してから40年の歳月が去ったわけであるが、共同声明の精神は中国によって一方的に葬られいまや「日中友好」は虚妄と言わざるを得ない。

まして「共同声明」を肉付けするために行なわれた日中平和友好条約の締結に外務大臣秘書官として奔走した身にとっては、実に辛いものがある。

私が記者としてNHKに入局したのは1959年、23歳のときだった。仙台、盛岡と5年の地方勤務を経て東京政治部に着任したのは東京オリムピックの年の1964(昭和39)年7月。長男が生まれて2ヶ月が経っていた。

いきなり自民党の「実力者」河野一郎担当を命じられ、のっけから派閥政治の実態を取材しまくった。当時の河野氏は池田勇人内閣の下、オリムピック担当を主とした無任所大臣だったので、折からの東京の水不足も取材した。

そのうちに池田首相が喉頭の「前ガン症状」で入院。昼夜を分かたぬ取材で「前」ガンは嘘で本物の喉頭ガンであることを医師団の一人からスクープしたが、首相が病室でNHKのニュースを見ているからと没にされた。幻の特ダネとなった。首相は翌年8月に死んだ。

その前に池田の後継を争ったのは佐藤栄作、河野、藤山愛一郎だったが、池田の裁定で佐藤が指名された。河野は翌年7月8日夜に死んだ。腹部大動脈瘤破裂。享年67。全国放送で死亡の30分前に死亡の誤報を流してしまった。

佐藤栄作首相は周恩来が連日のように呼びかける両国の関係正常化に反対だった。その後継者と目されている外相福田赳夫も当然消極的だった。その福田派を担当していたのが河野亡き後の私だった。

これに対して派閥を構える三木武夫と中曽根康弘は日中国交正常化推進。大平派もどちらかといえば推進派だった。

外務省も当然、消極的だった。首相が台湾支持だから当然である。

最近になって「日中国交正常化は官僚主導でなった」とする論文を書く人が出てきたから、反論しておく。

<外務省は2011年12月22日午前、日中国交正常化交渉を含む外交記録文書ファイル1265冊を都内の外交史料館で公開した。

世界を揺るがせたニクソン米大統領の1971年7月の訪中電撃発表に先立つ同年2月ごろ、中国の周恩来首相が藤山愛一郎元外相と会談し、米国との和解を示唆していたことが明らかになった。

しかし、当時の佐藤栄作首相は中国との国交正常化には消極的だったとされ、外務省も台湾重視の姿勢を崩さず、水面下で進む米外交の歴史的転換を察知できなかった。

日中国交回復促進議員連盟の会長だった藤山氏は、71年2月下旬から3月上旬にかけて北京を訪問し、周首相と会談。外務省の橋本恕中国課長が同年3月10日、会談内容を藤山氏から聞き取り記録した。

会談は同2月23日と3月3日の2回行われており、いずれかの内容とみられる。

それによると、周首相は藤山氏に「米国は変わり身が早い。中共(中国)との関係においては米国が先行して、日本が取り残されるのではないか」と指摘した。

これを聞いた藤山氏は「中共は昨年来の各国の中共承認の動きを見て、米国も結局は中共承認に追い込まれてゆくと見ているようだ」と分析。

「自分は中共が最も重視しているのは米国よりもむしろソ連の脅威であるという印象を強く受けた」と語った。

外務省はこれに先立つ2月20日、法眼晋作外務審議官(後に事務次官)名で「中国問題処理上の感想」とする極秘文書を作成していた。法眼氏はこの中で「中共のわが国に対する態度は、安保条約の廃止要求、軍国主義攻撃(天皇に対する非難攻撃)など目に余るものがある」と中国を批判した。

その上で「国交正常化が成就した後においても、真に友好的となるわけでなく『コレクト(適切)』な関係を維持することがせいぜいであろう」と冷淡な態度に終始。

「卒然として国府(台湾)を中共に乗り換えることは、わが国が小国の運命に冷淡なりとの非難を被る」と中国との国交樹立に否定的な見解を示している。>時事通信 2月22日。

こうした流れの中で、佐藤長期政権下、大蔵大臣や自民党幹事長として佐藤政権の後継者を目指し始めた田中角栄氏が日中正常化の実現を掲げて総裁選立候補を画策しはじめた。

私は当時、福田派担当だったが、どういうわけか政治部の中に造られた中国研究会メンバーに部長から指名されてはいり、仕方無しに猛烈な勉強を始めた。

こうした中でアメリカの大統領補佐官キッシンジャー氏が極秘裏の訪中、ニクソン大統領の1971年2月訪中を周恩来首相との間で取り付けたことが突如、報じられた。日本の「頭越し訪中」と政界とマスコミは涌いた。

<1972年2月のニクソン米大統領の訪中は,それまでの20年間の米中対決とアジアにおける冷戦を終わらせる歴史的出来事でした。ある意味で,この「ニクソン・ショック」が72年9月の日中国交正常化をもたらし,またインドシナ戦争の最終的決着をも実現させました。

ニクソン訪中については,米国国立公文書館(The National Archives)が1999年に会談記録(随行したウインストン・ロードが記録したもの)のほとんどを機密解除しました。

当時公表された全文を邦訳して解説を加えたのが『ニクソン訪中機密会談録』(毛里和子・毛里興三郎訳,名古屋大学出版会,2001年)です。

しかし実は,ニクソン訪中および米中共同コミュニケ(上海コミュニケ)は,前年7月のキッシンジャー大統領補佐官の衝撃的な秘密訪中,2回目の10月訪中の際,周恩来とキッシンジャーとの会談でほとんどお膳立てが出来ていたのです。

その会談記録は米国国立公文書館が2001年4月に機密解除しました.そして2002年2月および5月に,ニクソン訪中30周年を記念してこれらを民間のシンクタンク・国家安全保障公文書館(The National SecurityArchive)が国立公文書館から入手,ウェブを通じて公開しました.

これは,キッシンジャーが,訪中直前のニクソン大統領に提出した 500頁の「報告書」に相当するもので,その公開が米中をはじめ世界の専門家に熱望されていたものです。

本会談録が特に興味深く,専門家やジャーナリストにとって役立つと思われるのは,次のような点です。

第一に,ニクソン政権の「一つの中国」政策,台湾独立運動不支持政策が鮮明に出ています。

第二に,71年7月および10月に周恩来とキッシンジャーの間で実にタフな交渉が続けられた結果,「上海コミュニケ」の内容の95%がこの会談で準備されました.

第三に,米中二国間の問題だけでなく,インドシナ問題を始め,朝鮮半島,ソ連,南アジア,日本,軍縮政策など,国際政治のあらゆる事項について,他の外交文書には見られないほど,きわめて率直に意見が交わされています.その意味では,「模範的な外交交渉」とも言えます。

第四に,71年当時――沖縄返還の前年――の米中の日本に対する正直な認識が語られています。

国家安全保障公文書館のElectronic Briefing Book,No.66, No.70 に収録されているのは,71年7月会談関連のものが41件,同10月会談関連のものが27件で厖大です。

本書は,そのうち最も資料的価値が高いキッシンジャーと周恩来らとの会談記録(7月5件,10月10件),および72年1月のヘイグ副補佐官と周恩来の会談記録(2件)の合計17件。

さらに71年7月のキッシンジャー訪中の公告,ニクソン訪中時の上海コミュニケの本文および草案2件の合計21件を邦訳収録しています.

公告と上海コミュニケ本文を除き,いずれも本邦初公開です.内容は7月記録が国際情勢,中ソ関係,インドシナ情勢,台湾問題,日本問題,ニクソン訪中発表に関する打ち合わせ,10月記録がニクソン訪中の具体的段取り,台湾問題,日本問題,ソ連問題,朝鮮半島問題,ニクソン訪中時の共同コミュニケ草案です。

邦訳に当たっては,正確さと読みやすさを考え,大変苦労しました。また,読者の方の便を考えてかなり詳細な訳注をつけました。さらに,文末の解説は,資料考証に加えて,71〜72年米中交渉のポイントを分析してあります.

本書を通じて,読者の方は,71年〜72年のタフでエネルギッシュで,緊張した世紀の外交交渉を再現することができるでしょう。

(毛里和子) (もうり・かずこ) 1940年東京都に生まれる.62年お茶の水女子大学文教育学部卒業。65年東京都立大学人文科学研究科修士課程修了。博士(政治学)。現代中国論・東アジア国際関係専攻。早稲田大学政治経済学部教授。

著書に『中国とソ連』(岩波新書),『現代中国政治』(名古屋大学出版会),『周縁からの中国』(東京大学出版会),訳書に『ニクソン訪中機密会談録』(共訳,名古屋大学出版会)などがある。>

以上のように、キッシンジャー及びニクソン大統領の頭越し訪中こそは日中国交正常化を主導してといえるのである。このムードを田中角栄氏は巧みに利用。台湾派の福田氏を悪者と位置づけ、一気に総裁選を乗り切った。三木、中曽根、大平の各氏は決選投票で雪崩を打って田中支持に回った。

政権を獲得した田中氏は、その2ヶ月後には北京の人民大会堂にいた。交渉は当然非公開。二階堂官房長官の定例会見も「発表する事はありません」で、9月29日、突如発表された。また毛沢東との会見も真夜中に行なわれ、記者団には翌朝、発表された。

この会見には日本側からの通訳も官僚も同席を認められなかった。毛沢東は日本を初めから舐めてかかっていたのである。このときはまだ「尖閣列島」は問題になっていなかったが、毛沢東の死後に浮上し、トウ小平は後に帰属の決着をつけることを拒否した。

案の定、今や日本の主張を全く無視し舐め続けている。

中国経済の改革・開放と日中平和友好条約の調印は軌を一にしたものである。つまり改革・開放の実現を胸に秘めて3度目の復活を遂げたトウ小平は、そのためにはこの条約こそが中国発展のカギになると判断、締結を急いだものである。

言葉を変えれば、日本の有形・無形の援助こそが、改革・開放による中国発展のカギであり、日本あってこその中国の発展だったのである。

それにも拘らず、中国政府は日本の援助の実態を人民に秘匿したばかりか日本敵視教育を徹底させようとしている。これは団結の綻びを日本敵視によって繕おうとする「毛沢東理論」そのものの実践なのである。当に「日中友好の虚妄」こそは中国側によって一方的になされているものなのだ。

重ねて言うが日中国交正常化は官僚主導で行なわれたものではない。キッシンジャーとニクソンによってかき回されたムードに日本国民が踊り、それを田中角栄氏が政権獲得に利用したものに過ぎない。

そういえば「日中友好」という言葉自体、国交正常化に当って一方的に中国が言い始めた言葉だった。初めから日本を騙す心算だったのだ。2011・12・31


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