2006年09月24日

自分で潰した社党内閣

            渡辺亮次郎

昭和22(1947)年4月25日、私は小学校6年生になったばかりだった。この日、第23回、敗戦後としては2回目の衆議院議員総選挙が行われ、あろうことか、日本社会党が第1党となり、労働者と農民の党が政権を握った。片山哲内閣の成立である(6月1日)。

5月3日には新憲法、「日本国憲法」が施行されたから、新憲法下初の政権を握ったという輝かしい歴史を持つ社会党だったが、時流の然(しか)らしむるところ、現在は落ちぶれて社会民主党である。

社会党143、自由党131、民主党124、国民協同党29というのが獲得議席。ちなみに前年4月の総選挙で史上初めて登場した婦人議員39人はこの選挙で15人に減少した。歴史年表では、4月25日から小学校でローマ字教育開始とあるが、田舎では教えられる先生が居なかった。

私は「新憲法」なるものに興味を持ち、何処から手に入れたか記憶がないが、猛烈、勉強した。以後、2度目に憲法を読んだのは政治記者の成り立て直後、衆議院担当になったときだけである。是非、死ぬまでに改正憲法を読みたいものだ。
ところで、社会党が第1党になったことには、自由党、民主党など各党ともに驚いたが、最も驚いたのは社会党自身であった。それはそうだろう。「社会」とは「共産主義」と並んで危険思想として弾圧されていたのだから。

片山哲委員長自身は、「第1党が首班をとるのは当然のこと」「保守勢力の政策を国民が信頼していないということが明らかになった以上、つぎの政権は資本主義から社会主義へ移行する性質を持った政権でなければならない」と声明したものの、本気にする者は一握りだった。

特に党内右派の実力者・西尾末広幹事長は、社会党がかりに首班をとっても、自由・民主両党の反撃にあってはひとたまりもないと考えていた。何しろ、当時東京にいた私の親戚の男が西尾に小切手で献金したら、西尾は小切手というものを知らなかった、と聞いたことがある。

西尾が苦肉の中でひねり出したのが、「社会・自由・民主・国協党4党連立」、「社会党が閣僚の椅子を多く占める形での第2次吉田茂内閣」であった。

社会党は、自由党、民主党、国協党の代表者を招いて4党会談を開催した。

社会党から片山哲委員長、西尾末広幹事長、自由党から吉田茂総裁と大野伴睦幹事長、民主党からは斎藤隆夫最高総務委員と芦田均幹事長、国協党からは三木武夫書記長と岡田勢一中央常任委員会議長。

後に自民党総裁・総理大臣になる三木が異色といわれたのは、ここで分るように、彼は純然保守の出身では無かったからである。

4党会談では、社会党の提案した4党連立には賛成し、閣僚配分も決定したが、自由党吉田総裁、大野幹事長はともに社会党左派(「容共左派」と表現した)の入閣に反対した。そこで西尾は歴史に残る科白を吐く。

「七重(ななえ)のヒザを八重(やえ)に折っての願いごとです」と彼らを説いたが、自由党の左派への敵愾心は溶けず、こうして社会・自由間の協定は決裂した。

一方の民主党では党内紛争が激化していた。幣原派と芦田派、齋藤派の3派が3つどもえの争いを展開していた。幣原派は社会党との連立反対、芦田派は賛成であった。結局芦田派が大勢を制し、、民主党党大会は社民連立を決定した。

しかし、裏では自由党と民主党幣原派の合同によって一挙に社会党優位を覆す策謀が進められていたから、社会党は抜き打ちで4党会談直後の衆院本会議で首班指名選挙に持ち込んだ。新憲法下の初の首班指名選挙であったが、ここで片山哲首相が誕生した。

抜き打ちであるから当然、組閣名簿は全然出来ていない。主要閣僚は総て片山の兼任として、彼は1人で宮中の認証式に向かった。5月24日夜半のことである。

総司令部(GHQ)はこの孤独な片山内閣の誕生に際して、「片山氏が新首相に選ばれたことは、日本の国政が中道を歩んでいることを強調するものである」と実に晴れがましく発表した。吉田を嫌っていたのである。

社会党7、民主党7、国協党2、参議院緑風会1。社会党の椅子に左派が座ることはなく、右派偏重の組閣となった(6月1日)。官房長官(当時は非閣僚)に座った西尾は官房次長(現在の官房副長官)に東急の創始者五島慶太の女性曽祢益を迎え、もう1人の次長として運輸次官であった佐藤栄作を迎えようとした。

佐藤は巣鴨プリズンにいる実兄・岸信介に相談すると、岸は「その仕事はオレには出来るがお前には無理だろう」といい、佐藤はその言葉に納得して辞退したという。

佐藤はのちに自民党政権史上最長の政権を作り上げることに成功するが、仮に佐藤がこの時、社会党政権に入っていたら、戦後史の流れはだいぶん変わっていたに違いない。というよりも、当時は社会党に将来性を見た人は多かった。後に自民党で総理になる鈴木善幸も社会党だった。

片山内閣は、戦前の企画院事件で「アカ」だとして逮捕された和田博雄を農相に抜擢する人事を行い、また、片山内閣成立に於ける4党政策協定では、「経済危機突破のため現在の経済組織を対象とする総合的な計画に基づき必要なる国家統制を行う」という項目がいの一番に盛り込まれた。

これを受けて、社会党が実施を決定していたのが当時の重要なエネルギー源であった石炭を国家管理することであった。ところが、全国炭坑労働組合は、この内容は単に政府が3000万トンのノルマをクリアさせようとしているに過ぎないとして猛反発した。

上部機関である炭坑労働組合全国協議会の指導権を奪って急硬化した。炭坑産業全体で労組と経営者との対立が一挙に先鋭化し、9月下旬には一斉に炭坑産業は機能を停止するに至った。

それでも国会に炭坑国管は上程されたが、まず民主党の内紛でほぼ骨抜きになった。その上に本会議で反対票を投じたのは、野党となった自由党だけではなく、民主党幣原派が加わった。

それでも炭坑国管は過半数を得てようやく成立した。幣原派はこの後、民主党を脱党して「同志倶楽部」を結成後自由党に加わり、民主自由党(民自党)を結成する。片山内閣は炭坑国管によって大きなミソを付けた。炭鉱国管疑獄。炭鉱国家管理法案審議権をめぐる炭鉱業者の政治家買収容疑。田中角栄逮捕(→後無罪)。

片山内閣を外から揺さぶったのは炭坑国管問題であったが、内から揺さぶったのは左派の策動であった。

社会党党大会でも右派と左派の対立は激化し、書記長は西尾から左派に近い浅沼稲次郎に交代した。

かくて左派は、片山内閣の死命を制する。

政府提出の鉄道旅客運賃値上げ案は、これを財源にして公務員給与の増額を目指すものであったが、予算委員長鈴木茂三郎(左派)は、右派社会党・民主党の出席しない間に、抜き打ちで自由党・共産党と組んでこれを否決(政府原案撤回と組み替えを議決)。

民主党と国協党は激怒して、社会党に左派追放を要請したが、片山・西尾は穏便に左派分裂を図るために、ここは一旦総辞職した。昭和23(1948)年2月10日だった。しかし、この「一旦」は村山内閣まで戻らなかった。

しかも村山内閣は自民党との連立だったため、日米安保体制、自衛隊を認知するなど、党の基本理念を放棄するものだったため、党の破壊を招き、現在の社会民主党から政権は霞んで見えなくなった。その社民党をいま仲間にしようとしている人が居る。民主党代表小沢一郎である。参照:ウィキペディア(文中敬称略)
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