2006年09月16日

満蒙開拓って?

            渡部亮次郎

私の少年の頃(1940年代)、まだアメリカとの戦争が始まってない時代に、大人たちの会話に満蒙開拓(まんもうかいたく)という言葉が盛んに出てきた。行くか、行かないかの論議だった。

それは具体的には満蒙開拓移民(まんもうかいたくいみん)のことだった。1930年代に日本政府の国策によって推進された、大陸の旧満州、内蒙古、華北に入植した日本人の移民の総称である。中国残留孤児出現の原因でもある。

日本の政府は人口増対策として、戦前、北米アメリカ、南米ブラジルや南米諸国への移民の入植移民を進めていたが、段階的制限が加えられるようになっていた。

また、昭和恐慌による当時の地方の農村地域は疲弊と困窮をきわめており、窮乏生活を送らざるを得ない農業従事者らの強い移民志向もあった。
そこで、1931(昭和6)年の満州事変以降に本格化した日本からの満州国への移民は、当時の広田弘毅内閣が1936年に「満州開拓移民推進計画」を閣議決定し、1936年から1956年の間に、500万人の日本人の移住を計画、これを政府事業として進めた。

この政策には、20年間に移民住居を100万戸建設するという計画も打ち出されており、国策に裏打ちされた入植者の大陸への送り込みが図られた。種々の差別や貧困に苦しむ弱小農民が応募した。

日本政府は、1938年から1942年の間には20万人の農業青年を、1936年には2万人の家族移住者を、それぞれ送り込んでいる。この移住は、日本軍が日本海及び黄海の制空権・制海権を失うまで続いた。

満州開拓移民は農業従事者を中心に、村落や集落などの地縁関係に重点をおいた移民団が日本の各地で結成された。彼らは農業研修や軍事的な訓練を渡航前に受け、大陸へ「満州開拓武装移民団」として送り込まれた。

満州開拓移民の募集には、『王道楽土』や『五族協和』などをスローガンに喧伝したキャンペーンが大々的に行われ、多くの人々が募集に応じた。

満蒙開拓移民団の入植地の確保にあたっては、まず「匪情悪化」を理由に既存の地元農民が開墾している農村や土地を「無人地帯」に指定し、地元農民を新たに設定した「集団部落」へ強制移住させるとともに、

政府がこれらの無人地帯を安価で強制的に買い上げ、日本人開拓移民を入植させる政策が行われた。およそ2000万ヘクタールの移民用地が強制収容された。

地元農民は自らの耕作地を取り上げられる強制移住に抵抗したため、関東軍が出動することもあった。 「集団集落」は反日組織との接触を断つ為に、地元住民を囲い込む形で建設された。

満州は法律上、日本の本土の延長である「外地」ではなく「外国」であった。移住した日本人開拓団員たちは開拓移民団という日本人社会の中で生活していたことに加え、渡満後もみな満州国籍に変更せず日本国籍のままであった。

そのため、「自分たちは住む土地が変わっても日本人」という意識が強く、現地の地元住民たちと交流することはあっても「満州国人」として同化することはなかった。

戦局の悪化による兵力動員で1942年以降は成人男子の入植が困難となり、15歳?18歳の少年男子で組織された「満蒙開拓青少年義勇軍」が主軸となった。軍事的観点からおもにソ連国境に近い満州北部が入植先に選ばれた。私の田舎でもたった1人だが身青年の若者が応募して行ったが帰還しなかった。

地元の住民たちの中には、日本人開拓移民団を自分たちの生活基盤を奪った存在として恨み、敵視する者が少なからずおり、団員との衝突やトラブルに発展するケースも相次ぎ、絶える事がなかった。

これらの日本人への反感が、反日組織の拡大につながった。これらは、後のソ連参戦時に拓移民団員が現地民たちに襲撃される伏線ともなってゆく。

青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は27万人とも、32万人ともされる。ソ連の参戦でほとんどが国境地帯に取り残され、日本に帰国できたのは11万人あまりだった。残り20万人前後は各地でソ連軍に殺害されたか、集団自決したかである。

しかも敗戦後の日本の混乱により、開拓移民団を中心とした大陸から帰国した「引揚者」は帰国後の居住のあてもなく、戦後も苦難の生活を余儀なくされた。

政府は、彼らに移住用耕地を日本の各地で与えることにしたが、いずれの土地も荒れ 耕作には適さず多くの人々は過酷な状況にさらされた。このような帰国移民向けの移住用耕地を「引揚者村」といった。しかし、それも今では残っているところは殆どない。

肥えた未墾地なら地元の農民がとっくの昔に開墾していた。残っている未墾地は酸性で水保ちの悪い火山灰土のところばかり。酸性土壌に育つ作物を私は知らない。岩手県で秋田県境に近い八幡平では引揚者たちの逃げた跡地が坪10円でも売れない時代が戦後、続いた。

一方、都会に沈殿した引揚者がたどり着いた職業はヤミ屋の後は赤線、青線の売春業だった。大きな都会では何処にでもあった。東京で最たるものは新宿2丁目だったろう。

しかしこれも女性国会議員の怨嗟の的とされ、昭和33年3月31日限りで売春防止法により姿を消した。しかし、そんな法律、いまや無いに等しい。夜と言わず昼もけばけばしい爛熟産業が展開している。売春防止法以前ではないか。

九州のある地域から集落が纏まって満蒙に移住した人たちがいた。敗戦となって軍隊が先に引き揚げて孤立を余儀なくされたところへソ連軍が攻めてきた。

鳩首協議の結果、集団自決することになった。1人の少年が選ばれて祖国へ惨状を伝えるべく逃がされた。直後人々は互いに相手の胸を刺して自決した。

少年はやっと祖国へ戻って、昭和53年秋、外務大臣に上った郷土の星園田直を訪ねて外務省にたどり着いた。「何とか満洲への墓参団の訪問許可を中国から取り付けてほしい」
その時の在京中国大使館の相手が今は外相を経て国務委員に出世している唐家セン(とうかせん)参事官だった。「渡部さん、人間は正常に死んだら魂は直ちに郷里に還るというじゃありませんか。開拓団の人たちは日本の軍国主義の犠牲とはいえ、正常に亡くなったのですから、墓参の必要はないでしょう」。暖簾に腕押し。しかし、後に実現を果たしたが。

その後、大臣は厚生大臣(現厚生労働大臣)に移ったため私も付いていったが、そこで向き合ったのが中国残留孤児の日本帰還問題だった。実は日中平和条約の締結に行った時(1978年8月)に問題の存在は承知したので、外務省としても厚生省と連絡を取りつつ解決を待ってっていたのだ。

確か昭和56年3月2日に47人が来日、24人の身元が判明、帰国後2人の身元判明という成果は上がったが、以後次第に成果は低下して行き、現在は生活保障をめぐって政府との訴訟対決が展開されている。なんという悲劇。

これに懲りずに戦後も政府は南米移民を図り、大失敗して、しかも外務省は永年、知らん振りを決め込んでいた。さすがに今年になって事実上敗訴、見舞金を贈る事になった。これも政治家や役人を信じた国民純情のエレジーに他ならない。

満洲建国なかりせば、集団自決も強姦も残留孤児もなかった。広田弘毅首相の絞首刑という根拠はここにあるかもしれない。
(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』を参照)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック