2006年09月09日

転失気総理森喜朗

           渡部亮次郎

「転失気」は「てんしき」と読み「おなら」のことだそうだ。ある有名ブログの2006年9月5日版に「知らないのに知ったかぶりをする政治家を嗤う」小道具として使われていた。

高名な政治家のところに呼ばれた医者が最後に尋ねる「先生、処で、てんしきはありますか」。政治家はてんしきなんて知らないが、知らないと応えるのには面子が許さないから、あいまいに答える。

その後、話は落語みたいに展開する。てんしきを借りに行ったり、買いに行ったり、売り切れたり。てんしきとは「転失気」。おならとは知らぬまま、知ったかぶりを重ねる今時の政治家を嗤う材料としては恰好だ。

そういって嗤っていたら政党機関紙政治部の記者から知らされた情報で森喜朗元総理の「てんしき」ぶりを知った。「論座」という月刊雑誌の2006年10月号でのインタビュー。

知らない事は応えなければいいのに、仮にも元総理大臣。「知らない」とは言えないからつい「てんしき」ぶりを発揮している。
このインタビューは、五百旗頭 真(防衛大学校校長)、伊藤元重(東京大学教授)ら3人が森氏の生い立ちから今日に至るまで質問し、森氏が応える形式で、「キーパーソンが語る証言 90年代」と題し、
第13回に森氏が登場したもの。

◎ 角さんは初対面でいきなり紙包みを差し出した
◎ 日中条約を実現させた福田首相の夏の決断
◎ 福田派はお金を集められない派閥だった
◎ 安倍さんは竹下さんにしてやられた
◎ リクルート事件、株は騒ぎのあとも持っていた
など12ページに亘って語っている。

この中で「てんしき」なのは、私が外務大臣秘書官としてつぶさに見聞したことを、森氏は総理官邸で官房副長官だったとはいえ、殆ど福田総理から知らされずじまいだったことを、今になって「知らなかった」といえば面子にかかるのか、さも知っていたように語る,嗤いばなしなのである。

折角だから、森氏が1969(昭和44)年12月に無所属ながら初出馬にして初当選を果たしたあたりの話から始めよう。

保守系無所属が当選すれば、追加公認して公認料と貸付金を幹事長から渡すのは自民党の決まりだ。だから12月29日午前10時、党本部に呼び出されて、時の幹事長田中角栄氏から渡された紙包みが何であるかは、素人ならいざ知らず、今松治郎代議士の秘書だった森氏が知らないわけはない。

それなのに、カネの差出し方が悪かったといって「このとき僕はこの人とは絶対に席を同じくできないと思った。・・・福田派に入ることにした」と言っている。

多分その翌年のことらしい。森氏と同期当選の中尾宏氏(鹿児島2区=当時=故人)が政界中を触れ回る事件が起きた。「森がな、選挙区の運動会周りをして、財布をカラにした。親分の福田さんに70万を助けてくださいとお願いしたら、さすが元大蔵省主計局長。おいそれは50万に負からんか」

「その話が角栄(幹事長)の耳に入って、森がすぐ呼ばれた。森クン、これ持ってけよ、カネは邪魔にならんからな、といってポケットに300万円をねじ込んだ。森は受けとったさ」。私はこの話を中尾氏から何度も聞いた。森氏は否定するだろう。

「証言」で「森さんも受け取ったことがあるんですか」と訊かれて「いやいや」と応えている。

次に挙党協(挙党体制確立協議会)がこぞって三木首相の引きずり降ろしに奔走した時、森氏は三木内閣の総務副長官として、少なくとも形式的には三木側近だった。「証言」では「三木降し」が即福田政権に繋がると思っていたと応えているが、私からすれば不思議としか言いようがない。

詰まり三木降しの過程で福田、大平の両氏は三木氏から「ボクの後をやるのは君らのうち誰か決まっているのか」と逆襲されてギャフンとなった二人だったではないか。すぐ福田とは本人もまだ思ってない。

そこで園田直(福田派)保利茂(福田支持)鈴木善幸(大平派)江崎真澄(田中派)による調整が進んだ。森氏はその事実さえ知らないはずだ。

当時は、なんと言っても「闇将軍」田中支配の時代。田中氏が大平氏に手を上げれば即大平総理誕生の情勢だった。それに対して園田は「2年」を条件に田中氏の了承を取り付け「大福密約」を成立させたのだった。

この陰で福田氏は、総理大臣を「たとい半年でも」と懇願していた。田中氏との「角福戦争」に敗れてすでに5年。齢71である。これが最後のチャンスとは自他共に認めるところだった。

そうやって衆参両院とも、過半数を上回ること僅か1票というすれすれで成立した老齢内閣。党幹事長に回った大平氏とのすべての調整を考慮すれば、園田氏がこの際、内閣の番頭でもある官房長官に座る以外に妙手はなかった。

このとき私はまだNHKの記者だったけれども、しばしば料亭に呼び出されて園田氏の相談に乗っていた。そこで「あなたが官房長官に座る以外にない」というと「あんたもそう思うか」との答えだった。

しかし、福田氏の親分たる岸信介元総理大臣が背後から、自分の女婿安倍晋太郎の官房長官就任を迫っていたため、福田氏は園田氏の申し出に返事をしなかった。

これに対して園田氏は「官房長官でなければ今回は入閣しません」との最後通牒を放ち、塩川正十郎氏を副長官として長官室に籠もってしまった。総理は「1年ぐらい我慢するか」と呟いて渋々認めた。三木内閣にいる森氏がこの経緯を知るわけがない。それなのに「知らない」と言えないから「てんしき」と嗤われる。

1年後、園田官房長官は放逐される。福田派の若手が岸氏の指示で総反撃したから堪らない。実は大平氏と極秘の会談を重ね、「密約」の1年延長の話が佳境に入っていた。妥協寸前まで行っていた。園田氏は自分に酔い、長官更迭の陰謀進行に気付かなかった。副長官の塩川氏は知っていて、福田総理から口止めされ、守った。

ここで福田総理の立場に立ってみると,世は経済の構造不況。この打開に更に2年は必要。「経済の福田」と世間(世論)は期待しているようじゃないか。されば密約を破るのも致し方あるまい。密約なんて親分の岸総理も大野副総裁とのそれを破ったではないか。

官邸から私に電話がかかってきて「秘書官になってよ」「あぁいいですよ。ポストは何処ですか」「善幸さんや江崎さんが心配してくれているから留任だろう。ま、何処だっていいじゃないか」。行ってみたら仰天、外務大臣に変っていた。

このとき森氏は安倍官房長官の下、官房副長官に発令される。岸氏にしてみれば「満点」の人事だったろう。女婿は総理を望める地位、無所属候補にも拘らず応援に駆けつけた森クンも将来の総理ポスト。残念なのは「容共派」と睨んでいる園田を放り出せないばかりか、外相とは。しかも曲者記者渡部が秘書官か。

「証言」で森氏は園田氏がこの人事に不満なのは残した官邸が安倍色に塗り替えられるから、とワケの分らぬことを言っている。キャリア30年の代議士が、そんなことを不満とすると、森さんなら思うのか。園田氏は「密約延長工作」の破綻が悔しかったのである。

だから園田氏が「それで外務大臣として何をするかを考えたんでしょうね。功名心もあって日中(平和友好)条約に取り組んだんです」とは矛盾しており、下卑た判断だ。

日中条約を締結すると言う決意を福田総理が密かに明らかにしたのは、1977(昭和52)年1月4日。世田谷区下馬の総理私邸においてである。そこには園田官房長官に伴われた中年の男性が正座し、総理の決意を携えて直ちに北京に飛んだ。黒衣(くろこ)の登場だった。

しかし大蔵次官上がりの鳩山威一郎外相はソ連を恐れる事務当局を束ねることが出来ず、事態は一進一退を繰り返していた。そこへ園田氏が「功名心」から進んで乗り込んだとは、矛盾である。

任命したのは福田総理ではないか。知ったかぶりをするのは許せても、ウソを固めて故人を冒涜する事は紳士として欠格者だし、総理大臣経験者として、相当権威を欠くというものだろう。

福田総理は大平氏の無言のプレッシャーを身に受けながら、日中条約の締結が引退の花道にされるのではないかと危惧していた。だから園田外相が実績を挙げれば、大平側に寝返って攻略してくるという悪夢も抱いていた。

だから「私が北京に行けば必ず妥結してご覧にいれます」という園田外相の報告に耳を塞ぎつつ、交渉全権は佐藤正二大使で済まされないかと画策した。

当時、霞クラブで取材した東京新聞記者(その後東海大学教授)の著書『天皇と讃�平の握手』(行政問題研究所出版局)に詳しい。

福田総理は交渉の模様を逐条的に報告を受けていた。2006年8月3日、肺癌のため57歳で逝去した前上海総領事杉本信行氏の若き時代のメモだった。

ところが、園田外相は加えて、総理がすっかり忘れてしまっているあの「黒衣」から「中国は復活した讃�平副総理の指示で早期妥結にギヤを切り替えた。大臣が北京入りすれば必ず妥結」という、軍をも交えた情報を得ていた。この情報は大使館が得ていないから、総理の耳には届かない。

森氏は「証言」で福田総理の「決断」は昭和53(1978)年8月6日(日)午後6時、箱根プリンスホテルの福田・園田会談だったと強調するが、有田圭輔外務事務次官は北京入りの特別機を既に数日前に手配していたし、私はそれを見て、中国首脳への土産の絵画、大使館員への食パンの注文を既に終えていた。総理からゴーサインが出なければみんな辞職する覚悟は出来ていた。包囲されていたのは総理の方だった。

それが証拠に、この日ですら官房長官安倍晋太郎氏は関西、官房副長官の森氏は青森に出かけていて、急遽、呼び戻されたではないか。事態の中枢に彼らもいなかった。あるルートを通じて外務省のただならぬ状況が箱根で静養中の総理に伝えられて、事態が急展開したのだ。

外相は論議を覚悟して出かけたが、事態に気付いた福田総理はいきなり「何時行くかい」と開口一番言ったので、外相は「つんのめったじぇ」と私に言った。

付随して森氏は角福戦争敗北後、7-8人の子分を連れて福田派に合併した園田氏が派内で会長代行にのし上がるなど実力を発揮したために派内の不安が高まったと指摘しているが、本末転倒も甚だしい。

角福戦争時、NHKの福田派担当記者だった私から言わせれば、福田派には園田氏のような喧嘩士が皆無だった。だから園田氏に派の実権を握られたのである。森氏は盛んに安倍氏と園田氏が対等な実力を持っていたように説明するが、冗談も程ほどにしてもらいたい。

安倍氏に敵・田中角栄の牙城に単騎乗り込んで政権委譲の約束を取り付けてくる離れ業が出来たのか。なぜ、竹下登にしてやられたのか。森氏にその度胸があったのか。28年も経ってから死人を足蹴にして己を高く売りつけるとは見下げ果てた元記者よ。「てんしき」だ。

福田氏があえなく大平氏に敗れた後、密約を楯に福田支持をしなかった園田氏は福田派を除名され「政界のはぐれ烏」と成り果てた。それでも福田氏が大平批判を控えれば、ポスト大平は福田さんだといい続けた。

しかし福田氏の「乃公(だいこう)出でずんば」の過剰自信は遂に大平首相を死に追いやり、自らも納得のいかぬまま生涯を終えた。時宜を得て歴史を目撃した私は幸せだった。
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