2006年09月08日

杉本さん、頑張ったね

         渡部亮次郎 (園田外務大臣秘書官)
  (外務省・霞関会機関誌「霞関会報」平成18年9月号掲載)

杉本信行さんは、まだ57歳と若かったのに末期の肺癌には勝てなかった。2006年8月3日早朝、東京・築地のがんセンターで息を引き取った。

杉本信行さん、と言っても知る人は一般には無かった。2004年5月、在上海日本総領事館の館員が自殺した事件。このときの上海総領事が杉本さんだった。事件直後に東京へ帰っていたから引責したのかと誤解したが、帰還は末期癌と闘うためだった。
苦しい治療に耐えながらもいながら中国について、誰も書かなかった真実を著した「大地の咆哮」(PHP研究所)。死を賭しての著述をして悠然と去って行った。

杉本さんには永らくご無沙汰していたが、何しろ1978年8月、日中平和友好条約締結交渉に当たって、園田直外相に同行して、一緒に北京の人民大会堂へ出かけた「戦友」だった。京都大学在学中の1972年に外務公務員上級試験に合格した。

田中内閣により日中国交正常化が図られた年である。いわゆるチャイナスクールで養成されての園田大臣の一行への参加だった。当時の記録を取り出してみたら、中国側が用意した一行13人の名簿中になぜか「杉本信真」と誤植。中国課事務員、迎賓館107号室に東郷和彦条約局首席事務官と共に泊まった。

<病床にあり、直接御礼申し上げられませんが、渡部様には、拙書をとり上げていただき恐縮しております。 当時を懐かしく思い出しました。 とくれぐれも宜しくお伝え下さいますようお願いいたします。 杉本信行 >

というメイルを外務省(霞関会)事務局を通じて7月31日に戴いたばかりだった。それが3日後には、あっという間にこんなことになってしまった。癌の恐ろしさを改めて知らされた。もっともっと仕事をしたかったろうにと無念を思いやるばかりだ。
1978年8月8日午後3時に羽田空港を発った日本航空特別機に搭乗した日中平和友好条約締結交渉に臨む日本側代表団のメンバーは13人。杉本さんはまだ29歳、入省5年目のバリバリだった。

1号車紅旗 園田直  (外務大臣)    202号室
2号車紅旗 高島益郎 (外務審議官)   203号室
3号車上海 中江要介 (亜州局長)    205号室
4号車上海 大森誠一 (条約局長)    206号室
5号車上海 渡部亮次郎(外務大臣秘書官) 207号室
3号者上海 田島高志 (中国課長)    204号室
5号車上海 佐藤行雄 (外務大臣秘書官) 204号室
4号車上海 東郷和彦 (条約課首席事務官) 107号室
6号車上海 小原育夫 (中国課事務官)    208号室
6号車上海 市橋康吉  国際機関第1課事務官) 108号室
7号車上海 杉本信真 (中国課事務官)  107号室
7号車上海 頭山興助 (園田事務所秘書) 207号室
7号車上海 片桐正人 (警護官)     201号室

到着に当たって中国側が用意した車列と迎賓館(第18号楼)部屋割り表である。(杉本信行が信真と誤植になっている)。

夕方の北京空港はそれまで篠つく大雨だったらしいが、特別機が着陸した途端、太陽が真っ赤に焼けて素晴らしい夕焼けになった。で迎えてくれた黄華外相が、園田外相と握手を交わし「大臣は恵みの雨を持ってきてくれました」と挨拶した。北京は水不足だったのだ。

ところで、日中平和友好条約に就いて、福田赳夫総理は調印を佐藤正二大使にさせようと考えていた。このため7月21日から8月10日まで合計15回、ほぼ毎日行われた。

佐藤大使、韓念龍外交副部長を団長としてである。このとき杉本事務官は逐語的交渉録の作成を担当したのであった。だから杉本さんにとって日中平和友好条約締結交渉こそは、その後の中国との関わりの原点でもあったようだ。

<当時を懐かしく思い出しました。 とくれぐれも宜しくお伝え下さいますようお願いいたします。 杉本信行 >というメイルにそれを感じ取れる。

2004年のスパイ事件について、また<杉本氏はすぐに中国外務省に抗議するとともに政府に早急な対応を求めたが、当時の外務省は小泉純一郎首相らに報告していなかった。>という産経新聞の書き方には、事件を根底から解決しようと頑張った杉本さんの姿勢を評価しているようで、多少、救われる思いだ。

本籍地京都府 昭和24(1949)年、中華人民共和国建国宣言目前の1月24日生まれ、京都大学法学部卒業に先立って外交官試験に合格。希望してない中国畑にまわされた。まだ57歳。これまで中国勤務計14年。先輩外交官の岡本行夫氏の評価は「行動する外交官」として極めて高い。

「金を貸すバカ、返すバカと言われる中国で苦闘する日本企業の悩みに耳を傾け、トラブル解決のために奔走した・・・天は、過酷な試練を、この愛国者に課した」と、今度、杉本氏が出版した本の冒頭に「解説」を寄せている。

出された『大地の咆哮』元上海総領事が見た中国 PHP研究所刊。1700円。事情が事情だから、中国側の反発を怖れず書かれた史上唯一の中国論が詰まっている。中国共産党がなぜそんなに突っ張らなければいけないか、すぐ分る。ぜひ一読を奨めたい。発売13日で2刷りが出る勢い。大変な売れ行きである。

もともと私はNHKの政治記者だったが、巡り会わせで1972年9月の田中角栄総理に同行することになり、さらに6年後の園田訪中には政務秘書官として随行することとなり、自然、以後も日中関係に特別の問題意識を持つようになった。

杉本さんと出かけるときの特別機にはわが方大使館員への土産として、食パンを特別機に大量に積んだことを覚えている。

しかも当時の事務次官有田圭輔さんは、まだ福田赳夫総理から外相派遣のお墨つきの出ない3日前から「食パン手配」の許可を戴いたことを思い出す。有田さんも2005年11月に逝去された。

高島益郎さんに続いてのご逝去。園田訪中団13人中、杉本さんは3人目の逝去者となってしまった。園田団長は平和友好条約締結6年後に死んで、今年3月に23回忌を営んだばかりだった。

そんなわけで、爾来、私が読む本は日中関係を案ずるものが格別に多い。しかし、中国への再入国の可能性や希望を持つ人には外交官であろうが特派員であろうが真実の書けた試しがない。真実を書いて、ビザを拒否されるのを怖れるからだ。当然と言えば当然である。しかし、そこへ行くと杉本さんの本には真実がある。

杉本さんの本を読み始めて久しぶりに泣いた。また中国政府が人民の機嫌を案ずるために、いかに大国日本に辛く当たらなければならないのかも良く分かった。

とくに末期癌を押してなぜ著書の執筆に踏み切ったかの心情を綴った「あとがき」には特に泣かされた。

死期の近付いていることを自覚し、これが「遺書」になってしまうことを自覚していたのではないか。凄絶な覚悟の遺書である。

輩外交官だった岡本行夫さんが産経新聞(2006年8月4日付)で明らかにしたところによると、総理大臣の靖国神社参拝について「もはやここで止めたら、日本は圧力に屈する国だと誤解して大きな弊害を残すから、止めるべきでない」と言って死んだという。

<上海で同僚を失ったその年(2004)の秋、一時帰国中に、思いがけず自らの体に病巣が発見された。一刻の猶予もならないと言うことで、東京で治療を受ける手はずを整えた。

公館長の中でも多忙を極める上海総領事のポストを長期間空けるわけには行かないと判断した私は、外務省の官房長に後任人事を願い出た。

(中略)04年11月、帰国と同時に入院した際に医師から告げられた最終診断は末期癌。「手術も放射線治療も間に合いません。化学療法で全身に広がった癌細胞を叩くしか方法はありません」と言うことだった。

(略)家族の将来がひたすら案じられた。限られた命をどう有効に使うか、時間との勝負となった。化学療法の副作用は半端なものではなく、体力が消耗し、第一線で働いていた時とは状況が一変した。

これだけ相互依存関係を深め、いまやアジアのみならず世界の安定的な発展に不可欠になった日中関係において、5年間も首脳同士の対話が中断すると言う異常な状態が続いていることに対し、改めて非常な違和感を覚えた。

(略)これまでの経験を基に、現在の日中関係に何か貢献したいという思いが強くなり、周囲の勧めがきっかけとなって本書を書くことを決意した。(略)

抗がん剤の副作用で頭が朦朧とするなか、薬で痛みを抑えながらパソコンに向かい、家族、友人、同僚の激励に後押しされながら何とか書き上げることが出来た。助けて下さった皆様に、この場を借りてお礼を述べたい。(略)

最後に、本書を、上海で自らの命を絶った同僚の冥福を祈るために奉げる。また、奇跡を信じて完治をいのってくれている家族、両親、兄弟に感謝の気持を込めて贈りたい。2006年5月。杉本信行>
合掌2006・08・04。

(外務省・霞関会機関誌「霞関会報」平成18年9月号掲載)
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック