渡部亮次郎
安倍信三官房長官は2006年8月30日の自民党森派在京議員昼食会で、「多くの国民の期待を真正面から受け止め、9月1日に(自民党総裁選出馬の)決意を表明したい。21世紀にふさわしい美しい日本を作っていくために全力を傾けていく」と強調した。
これに対し森派会長である森喜朗前首相は安倍氏の支援態勢について「既に全党的な態勢が出来ているが、実際に一生懸命戦うのはこの(森派ノ)メンバーだ」と述べ、森派主導で支援する考えを示した。
さらに森氏は「党員に対してどういう呼びかけをするかだ。他派の議員に辞を低くして協力を求めることが大事だ」とし、他派閥との協調が必要だと訴えた。(以上、2006年8月31日付読売新聞参照)。
なんという次元の低さだろうか。安倍氏は国民を向いてモノを言っているのに、森氏にかかっては自民党、それも永田町内の規模に矮小化され、理想も信念もない、ただの下卑た喧嘩にされてしまう。
森氏の実像は「潜り抜け」の人生ではないか。高校でやったラグビーを材料に早稲田大学に潜り込む。ところが堂々たるあの体つきからは想像もつかないが、数ヶ月もしないで胃カタルを理由にラグビー部を退部してしまう。悪く言えば早稲田大学は詐欺にあった。
石川県では「政治家の家系」。将来、政治家になるためには有名な雄弁会で「訓練」しようと、そこへ潜り込む。そのあたりを含めて、より客観的なインターネットのフリー百科『ウィキペディア』に語らせよう。
<石川県能美郡根上町(現在の能美市)出身。石川県立金沢二水高等学校時代はラグビー部のキャプテンとして活躍。北陸3県大会で準優勝(当時はこの大会で優勝すると全国大会に進出できた)などの実績を残した。
スポーツ推薦を受けて早稲田大学第2商学部(夜間部。現・社会科学部の前身)に入学。しかし入学してわずか4ヶ月にして胃カタルにより退部した。その後早稲田大学雄弁会に入り、政治家を志すようになる。
大学卒業後は水野成夫の口利きで産業経済新聞社に事実上無試験で入社(当初日本工業新聞勤務 のち移籍)、その後、衆院議員今松治郎秘書を務めた後、1969年に衆議院選挙に初出馬で初当選。今松の属していた福田派に入会する。
福田内閣では内閣官房副長官に就任し福田を補佐、1983年第2次中曽根内閣では文部大臣として初入閣し、以後自民党文教族の実力者として実力を付ける。
しかし1988年のリクルート事件で2度目の入閣間近という時に一時謹慎を余儀なくされる。
2000年(平成12年)4月5日、3日前に脳梗塞で倒れ緊急入院した小渕恵三首相の後を継ぐ形で内閣総理大臣に就任した。このときの連立与党は自民党、公明党、保守党であり、メディア等では「自公保」と略称した。
森(当時自民党幹事長)の首相就任は、当時の自民党の有力議員5人組(森喜朗本人、青木幹雄、村上正邦、野中広務、亀井静香)が密室で談合して決めたのではないかと疑惑を持たれている。「森さんでいいじゃないか」の発言があったと報道された。
5人組の1人である村上正邦は後に週刊新潮に発表した手記できちんと党内の手続きを踏んで自民党両院議員総会にかけて総裁を選出したので密室で決めていないと反論している。
(5人組の1人となる経緯を振り返れば、森氏が初当選以来、表面的には懸命に反田中角栄を演じながら、内実はは田中派の面々との結びつきを如何に懸命に探って来たかを立証している)。
僅か1年の在任中、いわゆる「神の国発言」を初めとする数々の発言に対し、首相としての資質に欠けるとの批判が各層で盛り上がった。
一方マスコミが常に否定的な採り上げ方をしたとする意見も存在する。就任早々、「首相動静」について「ああいうのはウソを言ってもいいんだろ」と発言するなど、国民との対話を軽視する森の姿勢がマスコミの警戒感を招いていた。
2001年2月10日、ハワイで日本の高校生の練習船「えひめ丸」が沈没して9名が死亡する事件えひめ丸沈没事故が発生。事件の一報が入ったときゴルフをしていた森は、プレーを中断せずに続けたことで強い批判を浴びた。
午前10時50分に第1報を受けたあと午後0時20分の第3報まで1時間半もプレーを続け、3ホールを回ったとのことである。マスコミにこのことを問いただされた森が「プライベートだ」と答えたことで批判は拡大した。
さらに当日プレーしていたゴルフ場(戸塚カントリー倶楽部)の会員権は知人から無償で借り受けて自分名義としており、このことも批判を増幅させた。
森の主張によると、えひめ丸事件の1報が入った時、その場を離れないように言われたのでゴルフ場で待機していたとのことである。この事件の報道で違う日に撮影された森の楽しげなゴルフプレイ姿が繰り返し放送されたため悪印象が増幅した。
歴代内閣総理大臣の中で、森ほど発言に対する批判が集中した例はなく、森は内閣総理大臣の資質に欠けるとされた。内閣総理大臣官邸での公式記者会見時、森に対し総理番記者から「今問われているのは総理の資質だと思うのですが?」という異例の質問がされたこともあった。
内閣官房長官の中川秀直が愛人問題や右翼幹部との交際、警察情報漏洩などのスキャンダルで辞任。後任には当時森派の派閥会長だった小泉純一郎から推された福田康夫が就任した。
閣僚経験皆無での起用には疑問の声もあったが、森喜朗が頻繁にマスコミの批判を浴び、その度に福田が火消しに回る、という構図ができあがるにつれ、その執務能力の高さが明らかになった。福田は、後の小泉純一郎内閣も含めると内閣官房長官在任日数歴代最長となった。
上記のいきさつにより任期を通して支持率は低かった。任期の終わりごろには、遂に支持率が5・7%となり、マスコミなどではこうした低い支持率などを揶揄して森政権の事を「蜃気楼内閣」(森喜朗の音読み、シンキロウにかけた駄洒落)と呼ぶ事もあった。
政権末期には一部新聞が1面トップで「退陣の公算」と報じたことが退陣の流れを導いたとも言われる(新聞辞令)。2001年4月26日、就任からちょうど1年で次の小泉純一郎に自民党総裁と内閣総理大臣の地位を譲った。
退陣に先立って2000年11月21日、衆議院本会議において森内閣不信任決議案が野党から提出された。当時宏池会会長で自民党の次期総裁候補の1人と目されていた加藤紘一は、森不信任は国民の多数が支持すると考
え、YKKの盟友、山崎拓(山崎派)とともに、それぞれ自派を率い党の方針に反して本会議を欠席した(いわゆる加藤の乱)。
しかし宏池会で加藤に従った者は一部にとどまり、政権交代には至らなかった。加藤はその後秘書給与の問題発覚で議員辞職したが、2003年11月の衆議院総選挙で復活した。
福田派を継いだ安倍派では三塚博、塩川正十郎、加藤六月と並んで安倍派四天王の一人に称され、次代のリーダーへの地歩を固める。安倍死去後の三六戦争(三塚と加藤の後継者争い)ではいち早く三塚を支持。それからは党政調会長、通商産業大臣、党幹事長、建設大臣、党総務会長と重要役職を次々と歴任。1998年には三塚に派閥の継承を求め、森派を結成した。>
こう見てくると、政界への潜り込みの経緯が不明だが、初回の選挙は無所属だったが、今松治郎の親分だった岸信介元首相が応援に来てくれたことが福田派潜り込みの成功に繋がった。
今松の秘書を務めながら大蔵官僚塩崎潤の全国区参院進出を手伝っていたが、もし塩崎(後に衆院議員になり池田派)が当選していれば運命は変わっていたかもしれない。いずれ1度も落選した事がない。「潜り込み」が哲学になっている。
他派閥との協調に拘るのは、小泉首相が派閥政治拒否を否定させようとするもの。新進気鋭の政治家を元の古色蒼然たる自民党派閥政治に戻そうとするとは、いかにも下卑て、次元が低い森氏を「強調」している。こんな森氏の指導を受けたのでは参院選挙前に総辞職だ。
2006年09月01日
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