2006年05月10日

人さまの温情

           村西まさ子

 人さまのご厚情やご愛顧に支えられながら28年間にわたって商売をさせて頂いてきた私たち夫婦ですが、このたびほど人さまの“ご温情”を心の奥底で震えるほど感じたことはありません。

その時と申しますのは、私たち夫婦が大阪市西区の中華料理「えいらく」四ツ橋店を、この4月で幕を閉じ引退させて頂くことになった折りの出来事でございます。

実は、閉店を決意した1か月程前からお世話になったお客さまへ「閉店の挨拶状」をお出ししたのです。ところが、その直後からお昼の営業時間帯に何と普段の5倍以上に達すると思われる常連のお客さまたちが、列を作って来店されたのです。そして口々に、「この四ツ橋店で、よう17年間も頑張ったなぁ」とか「もうここのええ味は二度と食えんのか」、「この料理の味忘れんように、閉店の日まで毎日来るでぇ」などと、惜別のお声を掛けて下さったではありませんか。

“それほど迄に、弊店を大事にして下さっていたのか”という思いが込み上げ胸が詰まりました。厨房で背中越しにその言葉を聞いていた主人(範臣)が、体を小刻みに振るわせている姿を見るにつけ、私もついつい貰い泣きを我慢する事が出来ませんでした。 
お昼間も感涙の連続でしたが、夜の営業時間帯ともなると様子はまた一段とエスカレートいたしました。ご愛顧頂いてきたお客さまが、なんと「店を借り切って送別会の宴を開いてやろう」という申し入れが相継ぎ出したのです。

私たちの送別会ですって?それこそ“主客転倒”ではありませんか。おもてなしをしなければならない側の私たちが、こともあろうに主賓に祭り上げられ、別れを惜しむ宴席を開いて頂けるなんて、信じられないことです。恐縮のあまり立ち竦む有様でした。

 以来、夜はほぼ送別会の連続でした。中でも、親しくさせて頂いていた近くの大手商社の社長さんが大勢の社員とともに来られた時は、 会の冒頭に身に余る「送別の辞」を述べられたあと、私たちにそれはそれは見事な蘭の鉢を自ら手渡しされたのです。私たちは目の前のお客さまも憚らず、ボロボロと嬉し涙を流したものでした。

宴たけなわになるとどうでしょう。数人の社員の方々が、“客人立ち入るべからず”の厨房に押し入り、見よう見まねで料理を作るハプニングも。主人と私は、その送別会の特別興行に泣き笑いのしどうしだったことを今もはっきりと憶えております。

 こんな型破りの“送別会”は、枚挙にいとまがないほど続きました。これほど迄のご温情を頂いたという思いは、私たちの人生のひと区切りを締めくくる上で、これに優るものはないと、心の襞の内にしっかりと受け止めさせて頂いたのでございます。
 
主人と私は、主人が26才、私が24才の時、お見合いで結婚しました。主人は、関西学院大学法学部を卒業したあと、マルマン鰍ノ入社し東京勤務となりましたが、その数ヵ月後に菓子販売を営む両親が交通事故に遭って緊急入院したため、即退社、堺の実家に戻って家業を継いだのでした。
 
幸い両親の怪我が回復したため、主人は家業を継がずに済む事になり、これを機に自分で店を持ちたいというかねてからの想いを貫くため、大阪阿倍野区にある有名中華料理の永楽本店に“丁稚奉公”に入りました。新婚2年目の私自身が主人の転身に驚いたのは、いう迄もありません。しかし黙って見送りました。

敢えて丁稚奉公の道を選んだ主人の修行時代は、年若い朋輩との付き合いが中々うまくいかず、大変苦労したと聞いております。中々腕前を認めて貰えなかったようですが、朝は早く夜は深夜まで励むという真面目さが取り得の仕事ぶりがやっと永楽店の親方に気に入られ、結局8年修行の末に暖簾分けをして頂き、昭和59年に兵庫の武庫川で独立したのでした。

この武庫川店で6年間精魂込めて働きました。しかし、「どうしても大阪に店を出したい」という夢を捨て切れず、とうとう武庫川店をたたんで、大阪の谷町に出店することにし勇躍準備に明け暮れていました。好事魔多し。その谷町店開店の直前、主人の小腸にがんらしきものが見つかったのです。店は親方に支えられて開店出来ましたが、主人はすぐ入院いたしました。

部位が部位だけに検査は思うように出来ず、手術することになったものの、担当医師からはその前日に“手術はほぼ困難”と宣告を受けたのです。私は目の前が真っ暗になりました。幸いなことに手術は成功しました。私は、主人が復帰するまでの3か月の間、必死に店の切り盛りをしました。がその間、職人たちには無理難題をいわれ、いうにいわれぬ苦労を重ねました。

主人が復帰してからは、売上は順調に伸びていきました。従業員も13人ほどに増え、順風満帆そのものでした。ところが4年目に差し掛かっていた頃、予期せぬ危機が待ち受けていたのです。家主の倒産です。店の入居するビルが競売に付され、結局歯が立たない値段に太刀打ち出来ず、退去を迫られたのでした。

この結果、平成元年5月に四ツ橋店に移転した訳です。私たちは、「ここで華を咲かそう」と気勢を上げたのですが、その矢先に主人に大腸がんが見つかり、再び私は不安のどん底に落とし入れられたのです。なんとか内視鏡で摘出しましたが、その不安も消え去らぬ5年後同じ大腸にポリープが見つかり、がんと診断されました。この部位は深部すぎて摘出が不可能といわれ、それからは定期検査を続けています。

主人はことあるごとに、「これからどちらか病気になったら、潔ぎよくこの店を閉じような」と言っておりました。自分の病気で私に苦労を掛けたことへの心遣いとも受け取れましたし、主人も年を重ね体力的に自信を無くしつつある気持ちをそんな風に表現しているとも見受けられ、私はその提案に素直に頷いていたものでした。

 ところがどうでしょう。今度は私自身が重症の腰痛(椎間板ヘルニアと脊髄管中狭窄)を患い、店に立つことも出来なくなってきたのです。立ち尽くめの職業病とでもいいましょうか、いや老人特有の病といった方が正確かもしれません。意を決して私は主人に弱音を吐きました。主人は「よし、これが潮時だ。店を閉じよう」と胸を張っていって呉れました。
 
 私は、千里中央にある「千里ペインクリニック」に通って治療を受けながら、心の中では些か閉店にはためらいを覚えていましたが、今度ばかりは主人の方が頑なに意志を曲げません。その心遣いが分かるだけに私も、“申し訳ない”と思いつつ、店を閉じることに従ったのです。

そのあと起きたのが、本記冒頭に触れさせて頂いた“人さまの温情”のドラマです。旅行好きの主人とはこれまで元気な折に、海外旅行や国内温泉旅行にも行きました。

また縁あって「おおさかシニアネット」のパソコン教室の受講生になり、パソコンを使った絵付けや写真の取り込みなどパソコンの面白さや、同じ趣味の仲間つくりも身につけました。私たちの2人の男の子供も、長男は外資系生保会社勤務、次男は薬剤師に収まり、共に優しい嫁を連れ添い家庭も円満です。

これからは、腰痛とも仲良くおつきあいしながら、出来ることなら主人とゆっくり旅行を楽しみたいし、またシニアネットパソコン教室のお手伝いも、席に座ったままで許して頂けるならそれなりのお役に立ちたいと願っております。

これもあれも、このたびの“人さまの温情”が、私たちのこれからの生き方に暗示を与えて頂いたお陰だと心の奥底から思っております。これからの人生、この温情をことあるたびに思い出しつつ、精一杯生き抜こうと、主人と誓い合っているところでございます。
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