2012年01月21日

◆糖尿病だった明治天皇

渡部 亮次郎


わが国を近代国家として確立した明治天皇は、脚気は克服したが糖尿病についてはまだインスリンも発明されていなかったため、医師団もなすすべをしらず、明治45(1912)年7月30日、尿毒症を併発し61歳(満59歳)で崩御した。

大喪の日には、陸軍大将・乃木希典夫妻を初め、多くの人が殉死した。

同年(大正元)年9月13日、東京・青山の帝國陸軍練兵場(現在の神宮外苑)に於いて大喪の礼が執り行なわれた。大葬終了後、明治天皇の柩は霊柩列車に乗せられ、東海道本線経由で京都南郊の伏見桃山陵に運ばれ、9月14日に埋葬された。

なお『聖徳記念絵画館』は、明治天皇大喪の為にしつらえた葬場殿の跡地に建てられたものである。

皇后陛下にお子はなかった。5人の側室に大正天皇をはじめ13人のお子ができた。

明治天皇は明治新政府、近代国家日本の指導者、象徴として、絶対君主として国民から畏敬された。日常生活は質素を旨とし、自己を律すること峻厳にして、天皇としての威厳の保持に努めた。

乗馬と和歌を好み、文化的な素養にも富んでいた。

一方で普段は茶目っ気のある性格で、皇后や女官達を自分が考えたあだ名で呼んでいたという。

若い頃(とりわけ明治10年代)には、侍補で親政論者である漢学者元田永孚や佐々木高行の影響を強く受けて、西洋の文物に対しては懐疑的であり、また自身が政局の主導権を掌握しようと積極的であった時期がある。

元田永孚の覚書(「古稀之記」)によると、天皇は伊藤博文の欠点を「西洋好き」と評していた。

当時「江戸患い」と呼ばれていたビタミンB1欠乏症(脚気)に皇后とともに罹られたが、英国留学帰りの海軍軍艦医総監になる高木兼寛の意見を容れて食事療法で全快した。

このため、高木は4度も陪食を賜ったが「脚気黴菌説」を譲らぬ陸軍医総監森 林太郎(森鴎外)は1度も招かれなかった。

明治天皇はまた今で言う2型糖尿病も患っておられた。しかし国内では糖尿病の研究がさっぱり進んでいないことを残念がり 1911(明治44)年2月11日、『勅語』によって、皇室よりの下付金150万円と朝野の寄付金を合わせて済生会が創設される。

天皇の意向により「恩賜」と「財団」は1行に書かずに、済生会よりも小さい文字で2行に組み文字にすることとなっている。

同年5月30日、「恩賜財團済生會」設立認可。

組織の運営は内務省が管理し、具体的な事業計画は地方自治体に委託す
る形式をとった。

1952年、社会福祉法人として認可。 現在は、厚生労働省が所轄している。

これでできたのが東京・港区赤羽橋にある済世会中央病院で、わが国糖尿病研究の中心施設である。

糖尿病の特効薬「インスリン」が発見されて一般化するのは1921(大正10)年。つまり明治天皇が糖尿病から来る腎不全による尿毒症で崩御してから10年後だった。

インスリンについては5人が、ノーベル賞を受賞している。インスリンを発見したバンティングとマクラウドが1923年受賞。その後も、1958年にタンパク質の中で世界で初めてインスリンのアミノ酸構造を解明したフレデリック・サンガー (Frederick Sanger)。

1964年にドロシー・ホジキン (Dorothy Crowfoot Hodgkin)が、1977年にはロサリン・ヤロー(Rosalyn Sussman Yalow)がラジオイムノアッセイをインスリンで開発した事で、それぞれノーベル賞を受賞している。

1921(大正10)年にインスリンの分離に成功。1型糖尿病における薬物療法として、現在のところ唯一の治療法である。インスリンは蛋白質であるため、消化管内で速やかに分解されることから経口投与不可能である。そのため皮下注射によって投与するしかない。

ところで明治天皇は教育に関しては儒学を基本にすべしとする元田の最大の理解者でもあり、教育行政のトップに田中不二麿や森有礼のような西洋的な教育論者が任命された事には不快感を抱いていた。

特に明治17(1884)年4月下旬に森が文部省の顧問である御用掛に任命される事を知ると、「病気」を口実に伊藤(宮内卿兼務)ら政府高官との面会を一切拒絶し、6月25日まで2ヶ月近くも公務を放棄して引籠もって承認を遅らせている。

こうした事態を憂慮した伊藤は初代内閣総理大臣就任とともに引き続き初代宮内大臣を兼ねて天皇の意向を内閣に伝えることで天皇の内閣への不信感を和らげ、伊藤の目指す立憲国家建設への理解を求めた。

その結果、明治19(1886)年6月23日に宮中で皇后以下の婦人が洋装することを許可し、9月7日には天皇と内閣の間で「機務六条」という契約を交わして天皇は内閣の要請がない限り閣議に出席しないことなどを約束(「明治天皇紀」)して天皇が親政の可能性を自ら放棄したのである。

奈良時代に聖武天皇が肉食の禁を出して以来、皇室ではタブーとされた牛肉と牛乳の飲食を明治5年、自らすすんでし、新しい食生活のあり方を国民に示した。

明治天皇が西洋風に断髪した事で、国民も同様にする者が増えたという。

一方で和歌をよくし、残すべき文化は残し、取り入れるべき文化は取り入れるという態度を示した。

無類の刀剣愛好家としても知られている。明治14(1881)年の東北巡幸では、山形県米沢市の旧藩主、上杉家に立ち寄り休憩したが、上杉謙信以来の名刀の数々の閲覧に夢中になるあまり、翌日の予定を取り止めてしまった(当時としても公式日程のキャンセルは前代未聞であった)。

以後、旧大名家による刀剣の献上が相次ぎ、「水龍剣」、「小竜景光」といった名剣を常に携えていた。これらは後に東京国立博物館に納められ、結果として、重要刀剣の散逸が防がれることとなった。

写真嫌いは有名である。現在最も有名なエドアルド・キヨッソーネによる肖像画は写真嫌いの明治天皇の壮年時の「御真影」がどうしても必要となり、苦心の末に作成されたものである。

ただ、最晩年の明治44(1911)年、福岡県下広川村において軍事演習閲兵中の姿を遠くから隠し撮りした写真が残っており、これが明治天皇が最後に撮影された姿と言われている。

戊辰戦争で新政府と戦った東北地方を、強く憎んでいたといわれる。

戊辰戦争で奥羽越列藩同盟の盟主に就任した輪王寺宮(北白川宮能久親王)を、台湾へ送り込んだ。北白川宮には現地での暗殺説が存在する。

明治天皇の内親王(天皇の娘)の長男である小林隆利(キリスト教の牧師)は母から聞いた話として、明治天皇が、「私が天皇の権限で日本という国を調べた結果、日本は神道である。しかし、神道は本来ユダヤ教である」と語ったと述べている。再掲  2010・9・25
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