2012年02月17日

◆八郎潟干拓に奔走した父

渡部 亮次郎


2008年は亡父慶太郎の「生誕100年」だったが、後を継いだ筈の妹婿の倒産で生家も人手に渡ってしまったいま、そんなことを口にしたのは早くに実家を出た実兄と私だけだった。

明治40年、旧八郎潟東岸の貧農に生まれた父は自分の自作田を増やすためには、水深僅か4mの八郎潟の全面干拓しかないと若い頃から考えていたらしく、敗戦と共に運動を本格化させた。

具体的には水田のあらゆる作業を妻子に押し付け、秋田県庁や時には農林省(当時)に陳情を繰り返すことだった。お陰で私は一人前の百姓に成長しながら県立秋田高校に合格した。

一学年150人という小さな学校から8人が合格したが、百姓の倅は私1人だけだった。しかも野球部のキャプテン。余りの疲労を早く回復させようと砂糖を無制限に飲み込んだら心臓脚気になって気を失った。砂糖を消化するためのビタミンB1欠乏症だったのだ。

後に政治記者となって、昔農林大臣だった河野一郎を担当したら、陳情に来た父の名前を覚えていた。「キミはワタケーの息子か」。

八郎潟の漁業で暮らす人たちからは「ワタケー 馬鹿ケー」と言われたものだ。

八郎潟(はちろうがた)は、かつては琵琶湖に次いで日本第2位の広さ(220km2)を誇っていた。鮒、鯰、鰻、など沿岸住民の蛋白源の補給湖でもあった。しかし干拓により大部分の水域が陸地化された。陸地部分が大潟村となっている。

秋田県西部、男鹿半島の付け根に位置した。もともとは海と繋がった「汽水湖」であったが、八郎潟防潮水門によって締め切られており、残存湖は淡水になっている。

琵琶湖に次いで日本で2番目の広さだった八郎潟では、戦後、食糧増産を目的として干拓工事が行われた。あの頃は現在の米余り現象など想像する人は皆無だった。

工事は私が大学入学で上京したあとの1957年に着工。干拓国オランダから招かれたヤンセン教授が指導にあたった。20年の歳月と約852億円の費用を投じて約17,000haの干拓地が造成された。ヤンセンの名を突然、思い出した。父の口から、しょっちゅう出たので60年経ったのに記憶していた。田圃入りを拒否した兄は知るまい。

1967年から入植を開始。全体の事業は1977年に竣工した。

それとは別に父ら沿岸農家は沿岸に広がっていた葦谷地を入手、開墾によって水田を造成、そこそこの増反を果たしたのだった。妹婿に悪意はなかったろうが、この田圃も担保に取られて無い。

干拓工事によってできあがった土地に全国から公募された入植者が入植し、1964年10月1日に秋田県で69番目の自治体として、大潟村(おおがたむら)が発足した。

最終的には、米の増産を目指していたが、殆ど直後から始まった減反政策によって、干拓そのものを「失敗した計画」とする人たちもいる。特に環境の方面では、葦谷地という湿地(魚の産卵地と汚水の浄化)喪失を嘆く向きもある。「環境」重視の昨今なら八郎潟は生き残ったろ。

「他所者」の村との合併を望む周辺町村はなく大潟村は「村」のままである。

かつては汽水湖としてシジミが多く採れていたが、近年は干拓のために淡水化され、その収量は撃減している。夏はシジミを採取するために水潜りで水泳を自然に覚えたものだ。懐かしいなぁ。

冬期間は今も凍った湖面上でワカサギ釣りがよく行われているが、ブラックバスなどの外来魚の流入で在来種の減少が確認され、その対策が行われている。

反面、ブラックバス等の増加で近年は県外の釣り愛好家から注目され、夏になると観光客が多数訪れている。
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八郎潟の名称は、人から龍へと姿を変えられた八郎という名の龍が、放浪の末に棲家として選んだという伝説に由来するとも言われる。ただし伝説においても、今や八郎はこの湖には滅多に戻らないとされている。

父の遣ったことだから文句はいえないが、嘗ての八郎潟を失い、生まれた家を失い、私は二重に故郷喪失感を深くしている。「帰省」は無くなった。
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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