2012年02月26日

◆二・二六事件 ににろくじけん

渡部 亮次郎


今から76年前の1936(昭和11)年2月26日、官僚・財界とむすぶ陸軍統制派を倒して天皇に直結する政治体制をつくる「昭和維新」を計画し、陸軍皇道派の青年将校たちがおこしたクーデタ。

内大臣(天皇補佐の宮内官)斎藤実・教育総監渡辺錠太郎・大蔵大臣高橋是清らを殺害。

一時は議事堂を中心とする政治・軍事の中枢部を制圧したが失敗におわった。

大雪の2月26日早朝、皇道派青年将校がひきいる歩兵第1・第3連隊、野戦重砲兵第7連隊、近衛(このえ)歩兵第3連隊約1500名の部隊が、次々に政府要人の官邸や私邸をおそった。

栗原安秀中尉ら約300名は首相官邸にふみこみ、岡田啓介首相と誤認して秘書の松尾伝蔵を射殺し、坂井直中尉ら約150名は内大臣私邸で斎藤実を射殺した。

さらにその一部は陸軍教育総監私邸で渡辺錠太郎を、また中橋基明中尉ら120名は大蔵大臣私邸を襲撃して就寝中の高橋是清を射殺した。

安藤輝三大尉ら約200名は侍従長官邸で鈴木貫太郎侍従長に重傷をおわせている。こうしてクーデタ軍は午前9時ごろまでに陸相官邸や警視庁をはじめとする官庁街のほとんどを占拠して29日まで制圧した。

当初、真崎甚三郎・荒木貞夫・香椎浩平ら陸軍首脳は反乱部隊に同情的な態度をしめしたが、28日天皇の強い意志をうけて占拠撤収をもとめる「奉勅命令」を発し、翌日戒厳司令部が反乱軍を包囲して武装解除した。

検挙された青年将校らは、7月に開かれた弁護人なしでの非公開の特設軍法会議で17名に死刑が、翌年8月には事件の首謀者とみなされた超国家主義者の北一輝・西田税(みつぎ)にも死刑判決がくだされた。

この事件を利用して皇道派を一掃した陸軍首脳の梅津美治郎・武藤章ら統制派や石原莞爾は、広田弘毅内閣の組閣に介入し、陸海軍大臣を現役の大・中将にかぎる軍部大臣現役武官制(→ 軍部大臣武官制)の復活をはかるなど陸軍による強力な集権体制をきずいた。

筆者は生後、僅か1か月半。事件を知る由もない。ずっと大人になってから本を読んで知った。

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All rights reserved.による。2012・2・25
<産経抄>2月26日

昭和11年、二・二六事件を起こした部隊は、首相官邸や警視庁などとともに三宅坂の上方一帯を占拠した。今の国会議事堂正門に向かって右手の辺りだ。当時は陸軍省、陸軍参謀本部、陸相官邸などがあり、「三宅坂上」は軍中枢の代名詞のように恐れられた。

▼だから決起した青年将校たちにとって「昭和維新」を成功させるためには真っ先に押さえる必要があったのだ。彼らの作戦本部や軍との交渉や駆け引きの場ともなった。つまりあの「昭和の大事件」のメーン舞台が「三宅坂上」だったのである。

▼だが戦後、陸軍省も参謀本部も解体され、跡地は憲政記念館や庭園、それに議事堂の一角となった。事件の痕跡はまったく見当たらない。陸軍省などがここにあったことを示す標識すらもない。「平和主義」のもと、事件も「三宅坂上」もきれいに消し去られたのだ。

▼代わりに「三宅坂」の代名詞で呼ばれていたのが旧社会党だ。昭和39年、坂に面して社会文化会館が建設され、党本部となった。「空想主義」「何でも反対」との批判はあったが、一定の支持を集め、自民党や官僚にとってはこちらも怖い「三宅坂」だった。

▼しかし平成8年、党名を社民党に変えたころから分裂を繰り返して党勢はやせ細る一方だ。支持者も大半は民主党に流れた。党本部もメンテナンスを怠ったため老朽化が進むが、資金不足で建て替えもままならない。移転もやむなくなっているようだ。

▼党自体も衆参10人の小所帯なのに、相変わらず内紛を繰り返している。このままでは存続も危ぶまれそうだ。「三宅坂」も「三宅坂上」のような歴史から抹殺されかねない。党の中身もメンテナンスしておくべきだったのだろう。

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