2006年10月16日

◆生き抜いた王光美



          渡部亮次郎

王光美は文化大革命の中で失脚、非業の死をとげた中華人民共和国の国家主席劉 少奇の妻である。2006年10月13日に肺炎のため亡くなった。享年85。夫の憤死後、37年間を生き抜いた。

ノンフィクション作家の譚ろ美さん(東京生まれ、米国在住)が嘗て4回のインタビューをしたことから、16日付産経新聞に回想記を寄稿されたのを読んで初めてその死を知った。

譚さんの指摘どおり、「王さんの逝去により中国ではこれで革命第1世代の要人はすべて消え去ったことになる。革命中国の歴史を語り継ぐ人を失ったことで、20世紀がまた1歩、人々の記憶から遠のく」わけだ。

劉 少奇(りゅう しょうき、リウ・シャオチー、1898(明治31)年11月24日〜1969(昭和44)年11月12日は、中華人民共和国の国家主席。文化大革命の中で失脚、非業の死をとげた。日本が中国と国交を始めたのは1972(昭和47)年だから、既に歴史上の悪人とされていた。

湖南省の寧郷で生まれた。1913年に長沙に行き鉅省中学に入学し、その後1920年にソ連へ留学、翌1921年に中国共産党に入党した。主に労働運動で活躍した。

第1次国共合作の崩壊後は様々な地下活動に従事し、1935年の十二・九運動などを指導した。 第2次世界大戦及び日中戦争の日本の敗戦後に行われた1945年の第7回大会で毛沢東に次ぐ党内ナンバー2となった。

1949年の中華人民共和国成立後は、中央人民政府副主席や人民革命軍事委員会副主席を歴任した。1956年9月以降は政治局常務委員もつとめる。

1955(昭和30年)、毛沢東が「農業17ヶ条」を作り、以後12間で農業生産を3倍にしようという「大躍進」政策をとなえ、1958年から始めたが、失敗におわる。

政策は初めから達成は無理だとして批判する声は封じられる一方、最初の数年間はどこの地区からも「目標を達成しました」という報告が上がってきたが、殆どが嘘だった。

多くの村で書類上の数字が水増しされ、検査の時はワラを積み上げた上に生産物を並べたり、どうしても足りない分を隣同士の村で貸し借りしたりして、上げ底で目標があたかも達成されたかのように見せたのだ。

こんなことが12年ももつわけがない。数年後、あちこちで餓死者が出る騒ぎになった。「大躍進」の失敗は明らかだった。餓死者2,000万人と言われる。これだから中国の「統計」はいまでも信じられないと亡くなった元上海総領事杉本信行さんも言っていた。

毛沢東は政策の誤りを認めて1959年4月、国家主席の地位を降りた。後を受けたのは劉少奇国家主席ととう(�)小平総書記である。劉は毛沢東に代わり国家主席、中央軍事委員会主席となり、形式上は毛沢東を超えるポストとなった。

1960年代初期には市場主義を取り入れた経済調整政策を実施し、大躍進政策で疲弊した経済の回復に努めた。のちにとう(�)小平が打ち出す改革開放経済の核ともいえるものだった。

しかしいったん野に降りた毛沢東は学生らを組織して1962年頃から下からの思想改革運動を始めた。『文化大革命』の始まりである。

彼らが初め批判したのは当時のフルシチョフらソ連の指導部の考え方だったが、やがて運動はエスカレートして劉少奇ら、国内の国家指導部に向けられて行ったのは当然だった。

この運動で指導的な役割を果たした林彪と「四人組」と呼ばれた江青・王洪文・張春橋・姚文元らの狙いが初めから劉少奇ととう(察望�平だったからである。

劉少奇は文化大革命の中で、 “実権派(資本主義に走ったという批判を込めて走資派とも呼ばれる)の最高指導者”として徹底的な批判に曝された。

この結果、国民の声に押されるようにして毛沢東は実権を回復。劉少奇ととう(�)小平は失脚した。特に劉少奇は公衆の面前で毛語録を暗唱させられるなど屈辱的な扱いを受けた末、さらに収まらない運動家たちの執拗な攻撃に曝され続け1969年の獄死はまさに憤死だった。

文革時、王さんも大批判大会に引き出された。かつて「ファーストレディー」としてインドネシア訪問の時に身につけたチャイナドレスを無理やり着せられ辱められながらも紅衛兵からの罵声に、泣き喚くことなく冷静に反論」(譚さん)した。

この文革では、都市のホワイトカラーなどが強引に農村に連れていかれ強制労働(下放)させられたり、暴徒化した紅衛兵が「反共的」とみなした文化人やスポーツ選手を惨殺したりした。

1972年9月の田中訪中の際に聞いた中国人の話では嘗ての王宮「紫禁城」も壊されそうになった。止めたのは周恩来総理だったそうだ。

更に後には、紅衛兵として文革に燃えていた若者たち自身が「反共的」と言われて強制労働に送られることになる。

やがて最初の段階では文革の旗手として毛沢東の後継者ともみなされていた林彪副書記まで、追い込まれてクーデターを計画したとされるが失敗。逃亡中飛行機が墜落して「謎の死」を遂げた。1969年だった。それでも朝日の特派員は林彪は生きていると打電して読者を騙し続けた。

劉は1968年に除名、失脚へと追い込まれ、1969年に開封市の監獄で獄死したわけだが、1980年に名誉回復を果たした。毛沢東との路線の違いの他、大躍進の失敗で招いた毛沢東の威信の低下が文革の発動要因だった。(以上「ウイキペディア」など参照)

<10年に亘った文革は中国の政治、経済、社会、文化のすべてにわたって重大な打撃を与えた。特別法廷起訴状によれば、林彪・江青反革命集団の弾圧による犠牲者は72万7000人、死者3万4000人とされているが、これには武闘や大量虐殺事件の犠牲者、自殺者は含まれて居ない。

おそらくその正確な数を捕捉することは不可能であろうが、一般には死者1,000万人、被害者1億人と言われている。(中略)中ソ対立以来の社会主義陣営の分裂は文革によって決定的なものとなり、社会主義陣営は崩壊に至った>(「岩波現代中国事典」辻 康吾)

文革の真の検証が成されないうちに王さんが逝ってしまった事は中国にとって大きな損失だが、王さん自身は12年の投獄ののち、名誉を回復し、静かな家庭生活を得ての死は、僅かながらの幸せだったろう。

中国の歴史は革命後も内部抗争の歴史であり、現在の胡錦濤・江沢民抗争が終わったにしても、さらに奄々と続くものと思わなければならない。文革後に始まった再開日中関係は永遠に難しい所以だ。2006・10・16
 


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