2012年03月14日

◆84でまだ走る山田敬蔵

渡部 亮次郎


米ボストン・マラソンの優勝者山田敬蔵は秋田県民の誇りだ。

私は彼の出身地大館市に記者として1年間駐在しながらチャンスなく未だに面識は無い。既に84歳で、さすがにフル・マラソンからは引退したようだが、未だに走る事は止めていない。

山田敬蔵 やまだ けいぞう、1927(昭和2)年11月30日 ―は、日本のマラソン選手。ヘルシンキオリンピック男子マラソン日本代表。

秋田県大館市出身。現役時代の所属は同和鉱業花輪鉱業所。1952(昭和27)年、戦後の日本が初参加となったヘルシンキオリンピックに、マラソン日本代表として出場し、25位。

翌1953(昭和28)年4月20日ボストンマラソンにおいて優勝。記録は2時間18分51秒。当時世界最高記録とされた(のちに距離不足が判明している)。

ボストンマラソン(Boston Marathon)は、毎年4月にアメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンで開催される、マラソン大会。第1回オリンピックの翌年、1897年に開催され、オリンピックに次いで歴史の古い大会で、2010年4月現在開催されているマラソン大会開催数では世界一。

誰でも走れるわけではなく、参加には参加資格タイムをクリアしている必要がある。

日本人では、瀬古利彦が2回優勝している(1981年・1987年)。このほかの日本人優勝者としては、
田中茂樹(1951年) 2:27:45
山田敬蔵(1953年) 2:18:51
浜村秀雄(1955年) 2:18:22
重松森雄(1965年) 2:16:33
君原健二(1966年) 2:17:11
采谷義秋(1969年) 2:13:49
がいる。

このうち、田中・山田・浜村の走ったコースは後に距離不足が判明し、いずれも記録抹消の憂き目を見ている。山田の記録は当時世界最高記録とアナウンスされていた。

女子での日本選手の優勝はまだない(過去最高順位は1992年に出場した山本佳子の2位)。ただし、日本出身で米国籍を取得したゴーマン美智子が1974年と1977年に優勝している。

また、ボストンマラソン優勝者は優勝年から50年後の大会に招待される。田中茂樹は2001年にボストンマラソン前日の交流レースに出場。山田敬蔵は2003年にフルマラソンに出場、山田は4時間10分11秒で70歳以上の部で5位であった。

山田は1995年から毎年出場しており、2007年までに17回出場、1998年から2001年まで70歳以上の部を4連覇している。チーム・ホイトも参加した。

優勝時活躍の様子は、1954年大映によって「心臓破りの丘」と題して映画化された。映画は、監督木村恵吾、脚本須崎勝弥、主演根上淳である。主演の根上淳は既に鬼籍だが歌手ペギー葉山の夫だった。

山田はその後もボストンマラソンには1953年、1957年、1975年、1976年、1995年からは毎年出場しており、1998年から2001年は70歳以上の部を4連覇している。2003年にはボストンマラソン優勝50年を記念して招待選手として出場している。

また、優勝年の1953年にちなみ、ゼッケン番号1953は永久欠番となっており、出場時には山田のみがこの番号を付けることが許されている。2007年大会も4時間24分07秒のタイムで完走している。

1961年の秋田国体炬火リレーの最終走者である。2007年の秋田わか杉国体でも炬火リレーの走者(最終走者の直前の走者)となった。現在でも各地のマラソン大会に招待選手として参加しており、その健脚を披露している。

2009年7月、81歳でフルマラソンから引退を表明した。

故郷である秋田県大館市の名誉市民であり、大館市では、山田敬蔵の栄誉を讃えて毎年4月29日に山田記念ロードレース大会を開催している。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
                       2012・3・11

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