2006年10月20日

◆「いじめ」対策は親から



           渡部亮次郎

鶏を飼ってみると良く判る。この世に「苛め」は不可避だと。私も今考えれば小学校の時から苛めに遭ったが、気にしなかった。あいつらは多勢、こちらは独りだったが、あいつらは束ねて先生に馬鹿にされていたから。

苛めはなくならない。人間の本能でもある。弱い者を守ろうと言うのは恰好いい人権派理論。アメリカ流だが、実態は逆。弱い者をグループのみんなして苛める。それが実態だ。

京都市環境局の職員が今年既に14人も逮捕された。これは彼らをこれまで差別してきた京都人の「いわれなきプライド」が初めて復讐を受けていることなのである。事件には法則がある。「因果応報」だ。

鶏を飼ってみると良くわかる。発育の良くない1羽をみんなして苛める。考えてみると、鶏は十何羽、同じ母鳥に抱かれて生まれたのだ。それなのに発育の悪い兄弟を突っついて羽根を毟る。

毎日みんなから毟られるから、弱者は益々哀れな姿になってゆく。みんなはその哀れを見て、益々苛める。とうとう力尽きて死んでしまう。鶏たちは次のターゲットを探して苛めを止めない。

学校の先生は教育の情熱に突き動かされて教員になった人ばかりではない。性格は体制順応型が大多数。その中から要領のいい奴が教育委員会の役人になって先生に居直る。

見ている方向には児童・生徒も先生も父兄も無い。有るのは「出世」だけ。口にする答弁は「事勿れ」。事件が起きないように祈っているのではない。表沙汰にならないことを工作しているだけだ。

彼らは鶏の論理は知っているから、学校に苛めが日常茶飯事的に存在することを承知している。だが学校から「報告」が「無い」以上、「苛めは無い、と承知」しているだけだ。

先生は頭脳は普通だから、教室の雰囲気で苛めを察知する。さてどうする。被害者は1人、加害者はクラス全員。クラス全員を敵に回してクラス運営をする度胸の有る人間は居ない。そんな有能な人間は別の職についている。見て見ぬ振りを決め込む。

被害者が自殺でもして、事件が顕在化する。「気がつきませんでした」。
マスコミもいい加減だ。鶏を飼ったことがないのか、苛めをこの世の珍現象と決め付けている。

したがって、苛めはどこにもあるが隠蔽されているだけのこと、という認識がない。鶏を飼ったことがない人ばかりらしい。大学に行くよりも鶏を飼ったほうが早い。

苛めは何時の時代でも何処の学校にも職場にも有る。ないところなんか絶無。また、それを隠したがるのも当然。グループの全員が加害者。先生など指導者も全員の味方。被害者に味方すれば先生は学級経営が不能になる。

マスコミはこれだけの覚悟を以て事件の報道に携わるべきなのに、先生が悪い、校長が無責任、教育委員会が無関心という類型的な報道を繰り返すだけ。馬鹿ではないか。読者、視聴者へのゴマスリもいい加減にしろ。

わが子の生存補助に最大の責任を負うのは両親であって教師でも校長でもない。それなのに、親として養育権を放棄するという人道に悖る大罪を犯しながら、学校を責める親を見ていると、何をかいわんや、という気になってくる。

学校は教育は授けるが人格の形成までを請け負っているわけだはない。子供が何を悩んでいるのかはまず、親が気付くべきだ。先生では絶対ない。日教組はかくのごとく、親をも狂わせてしまった。2006・10・19
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック