2006年10月23日

◆森氏のアプリケ

                 渡部亮次郎

<自民・森氏、新会長に町村氏指名…森派総会で自民党森派会長の森喜朗・元首相(69)は19日昼、東京・紀尾井町のホテルで開かれた同派総会で、会長辞任を正式に表明し、後任として同派事務総長の町村信孝・前外相(62)を指名した。町村氏は受諾し、森派は町村派に衣替えすることが決まった。>
(2006年10月19日15時53分 読売新聞)

派閥会長は首相を目指す人、と森さんがこの席で言った。だから町村さんは突然、総理総裁を目指す人ということになるが、世間は町村さんをどのように認知するのだろうか。ただただ派閥を維持するための便法ではないのか。

ご本人の言うことには「一生懸命働く。もっと研鑽を積み、総裁候補となれるよう努力する」だと。派閥と言うものは、総裁候補を自任する人間が飼う手兵の集団だったが、いまや縞馬のような集団になった。固まっているように見えるだけ。

嘗て共に福田赳夫氏を担当した屋山太郎氏(現政治評論家)がいう如く@金権政治批判が強くなり派閥の領袖はカネで国会議員をひきつけられなくなったA選挙の公認や閣僚推薦権を領袖は失ってしまった。復活の見通しはない。

だとすれば町村派は何を目的として存続して行くのか。森氏が挨拶で述べた(産経新聞 2006年10月20日)ように「ある種のオアシス」だから堤一族を頼って赤坂プリンスホテルの事務所を維持するのか。

各紙はそろって森派を町村派と呼びかえることになったが、町村氏は森氏に名誉会長就任を要請する考えだという。これで森氏が事務所に毎日顔でも出すことになれば「隠棲」どころか「院政」になること確実である。

しかも森氏は「町村派の当面の仕事は何処までも安陪首相を支えることだ」と言い切り「町村総裁候補の擁立」とは言っていない。なんだか町村氏が「当て馬」に見えて可哀想だ。

私が福田派を担当したのは昭和46(1971)年夏、いよいよ「角福戦争」勃発の時だった。もともと岸派にいた福田赳夫氏は党風刷新連盟を結成して独立。僚友の椎名素三郎、赤城宗徳、川島正次郎氏らは福田氏とソリが合わず別派を作った。

事実上の福田派の結成が昭和37(1962)年だから「兵を養って既に10年」だったが、幹事長、大蔵大臣、外務大臣とエスカレーターで上って来た自信から、佐藤栄作総理からの政権譲渡のみを信じて座したままだった。

これに対して田中角栄氏は同じ佐藤陣営ながら、学歴、門閥なし故に這い上がり人生を送ってきたから「政権は毟りとるもの」との決意。得意の気配りと現ナマ作戦による人心収攬に務めて長かった。

福田氏が全く手当てしない参議院自民党対策にも抜かりなく、本来、福田支持と見られていた重宗雄三議長にも「手当てしてあった」と後に豪語したぐらい。

ある実力者によれば田中氏の手当ては本丸の佐藤総理にも達して居たといわれ、そのせいか、佐藤氏は土壇場で選挙区山口に帰ったまま政権譲渡の件には口をつぐんだままだった。福田側近の田中龍夫氏の電話にどうしても出てこなかった。目撃した。

以後、福田氏は1976(昭和51)年暮れ、総理の座を71歳にして手中にするも、それは闇湘軍となった田中氏の認知に基づく密約内閣だったため、「天の声にも変な声がある」と2年で退陣。

森氏の総理就任は小渕総理急病中のどさくさ内閣。要は森氏の永年に亘る旧田中派への接近作戦(ゴマスリ)の成果だった。続いた小泉純一郎氏は福田派を全く頼っていない。安倍政権は小泉政権のお陰。森派のお陰ではない。

むしろ森氏が小泉、安陪氏のお陰で派閥を太らせてきたのが実態だ。とすると、町村派なるものの存在は森喜朗氏のアプリケ(飾り)というべきではないか。派閥不要論を聞きながら「派閥はある種のオアシス」論を聞くと、益々そう思う。2006.10.23
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス: [必須入力]

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この記事へのトラックバック