2006年10月24日

◆小沢神話をでっち上げた男

                渡部亮次郎

政治記者の大先輩によると、自民党や公明党には、小沢期待論が生まれているそうだ。できるだけ長く民主党の代表をやって貰いたいと・・・。

小沢は衆院補選の神奈川、大阪で勝てないと分かったら、いち早く北海道に遁走、何と鈴木宗男氏と会って選挙協力の話をしている。係争中の鈴木に有罪判決が出たら、どうするのだろう?

猫の手も借りたいという言葉があるが、柴犬まで駆り出して応援して貰う知恵の無さ、こんな小沢一郎の体たらくだから、できるだけ長く民主党の代表をやって貰えれば、安倍首相の若さと清潔さが光ってくる、と大先輩は言っている。

自民党や公明党から期待される様では、小沢神話も地に墜ちたのだ。もともと小沢は選挙には強くない。自民党の幹事長当時に都知事選を指揮して見事に失敗している。NHKの磯村キャスターが落ちた選挙。小沢神話なんて無かったのに、わざわざデッチあげたのは早坂茂三である。

政治記者から大臣秘書官までは私と似ているが、大きく離されているのはフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に早坂は載っていることである。

<早坂茂三(はやさか しげぞう、1930(昭和5)年6月25日 ―2004(平成16)年6月20日)は、政治評論家。 北海道函館中部高等学校を経て、学生運動にのめりこみ浪人留年を繰り返した後に1953(昭和28)年に早稲田大学政治経済学部を卒業。東京タイムズ社に入社し『東京タイムズ』の政治部記者として田中角栄と知り合った。

1962(昭和37)年、大蔵大臣を務める田中の秘書官になり、田中の内閣総理大臣在任中を含め、田中が脳梗塞で倒れた1985年まで政策担当の秘書を務めた。 その後、田中の長女・真紀子と対立し、政治評論家に転身した。

田中角栄の政治的足跡や生き方をテーマにした著書を複数出す一方、人生論を若者向け雑誌に連載するなど、活動を広げていた。テレビでは報道番組のほかクイズ番組やドラマにも出演した。死因は肺癌。享年73。

真紀子が初当選したときに選挙特番に出演していた早坂が「マコちゃんおめでとう」とねぎらいの言葉をかけたがピンマイクが外れて聞こえないふりをされた。


晩年、旅客機離陸時に、椅子を倒したままだったのでスチュワーデスに椅子を元に戻すように促されたが、頑なに拒否。出発が大幅に遅れた。翌日の新聞にも報道された。 趣味は金魚飼育だった>

息子は某放送組織記者。

訳知りによれば田中角栄の政策担当の秘書だったなんていうのは真っ赤な嘘。本人が吹聴したもので、何も知らない若い記者が信じただけのことである。ウィキペディアも一部騙されている。

本当は角栄に言われて、ボストンバックに現金を詰め、選挙区回りをして田中派を作るべく候補者にカネを配って歩いたメッセンジャーボーイ。

角栄が脳梗塞に倒れると同時に真紀子に放り出されて食うに困っていた時に救いの手を差しのべたのが共同通信社。共同通信社と地方紙各社がタイアップした講演会組織、政経懇話会の臨時講師に採用して貰って糊口を濡らした。

だが、そのうちに「小沢こそは角栄を継ぐ者」「選挙作戦に特異能力」などという小沢神話をでっち上げて小沢に近付き、更に小沢をタネにして世間をのし歩いた。小沢神話とは早坂がでっち上げた早坂のメシのタネに過ぎない。

旅客機離陸時に、椅子を倒したままだったのでスチュワーデスに椅子を元に戻すように促されたが、頑なに拒否。出発が大幅に遅れた、というのはその頃の話。

九州の空港に貴賓室を予約しろなどと注文をつけたこともあったそうだ。しかし、真実は角栄から早いうちに疎んぜられ、それを知っているから真紀子も早坂を嫌ったのだ。

早坂の宣伝どおりなら、ロキード事件では早坂が矢面に立たされたはずだが、秘書「官」の榎本だった。早坂は角栄の「周辺者」に過ぎなかったから難を逃れた。新聞の切り抜きしかさせていない男に何億ものカネを扱わせる首相はいないだろう。

早坂がいた東京タイムスはつぶれた。東京・新橋にヤクルト本社、その隣の徳間書店本社になっているところがそうだった。小さな新聞社で昭和40年代まで有った。

早坂はそこの政治部の記者だった。函館出身とは言うが、山形から流れて行った人たちの末裔。早稲田時代、日本共産党員だった。読売の渡邉恒雄,日本TVの氏家斉一郎は東大の共産党員だった。

小さな新聞社の記者生活は不満だらけだったろう。車すら十分に使えなかった。そこでかどうか田中角栄の所へ飛び込んで秘書になった。しかし真実、田中は早坂を重用せず、秘書にはしても秘書「官」にはあまりしたがらなかった。。

しかし当時のことを知る楠田実(佐藤首相の首席秘書官、楠田実日記の著者。故人)によれば日本列島改造論は東大出秘書の尽力で出来たのに早坂の手にかかると「通産省の役人たちと一緒に汗だくで本にした。総裁選挙前の6月、日本列島改造論が大ベストセラーになる。ネーミングは私の発案です」となる。

私自身も大臣の秘書官を長い事やったから感じたことだが、役人たちは秘書「官」なら相手にするが、「長」や「官」の付いていないものは通行人扱いである。役人たちが早坂の言うことを聞くわけがない。

角栄の信用を途中から失っていたことについて、当時を知る人の話では待遇について文句を言ったからだそうだが本人は触れなかった。本人の言うとおりなら早坂こそは総理大臣になった田中の首席秘書官でなければいけないはずだった。

ところが事実は官邸の廊下での切り抜きからも退出させ、早坂を表には出さなくなった。当時、官邸にいた記者のひとりが言う。

「榎本首席秘書官とは、彼が募っていた亀岡・小沢(一郎)・高鳥修らの議員と連れ立って富士山麓にゴルフに行ったりしましたが早坂とは飲み会もありませんでした」。

しかし、さすがの早坂。親父(田中)の死と同時に、かつては「親父の敵」のはずだった文藝春秋社の月刊雑誌「諸君!」のレギュラー執筆者にもなっていた。

あまた居た田中角栄秘書の中で記者上がりとして唯一の生き残りになったのが得となり、言論人に還ったのみか、角さんを栄養として名を成すことが出来たのである。

なにしろ一介の政治家秘書の死に朝日新聞までが弔意記事を載せた例を私は早坂氏以外に知らない。しかし「小沢神話は私のでっち上げ。嘘でした」と言わないまま逝去したため、若い記者のみならず政治家までもだまされている。罪は大きい。(了)文中敬称略 2006・10.24

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