岩手県の増田寛也知事が10月30日の記者会見で、来年4月日時選挙には出馬しない意向を表明した(31日付読売新聞)。現在3期目だから多選批判を意識した、などと新聞は本当のことを書かない。真実は小沢一郎に嫌われ、岩手を逃げたくて堪らなかっただけである。
私は1970年から4年間、岩手県政担当の記者だった。その頃、増田の父・盛(さかり)が自民党県連に担がれて、郷里の知事選挙に挑戦、敢え無く落選。その後は諦めて参議院議員になったが、院内で顔を合わせると、実に寂しそうだった。
それから幾星霜、岩手の知事に増田という人が登場したので、盛と関係あるのか、と訊いたら、息子だと言う。東京生まれの東京育ち。高校も戸山高校卒である。良く決意したものだと感心したが、初めは岩手で威張っている小沢一郎に引き出されたのだと言う。建設省の高級官僚からの転身だった。
親父さんは既にこの世を去っていたが、増田家は2代かかってやっと念願を果たした、と喜んでいたが、聞こえてくる話は悪いことばかり。そのうちに小沢は増田に見切りをつけ、地元代議士の達増拓也(42)を送ると発表した。増田の人気に翳りを見て、見限ったのだ。
衆議院の議席の4分の3を小沢に制せられている岩手の自民党。世の中の流れに逆行している。だから増田の担ぎ出しを策したようだが、増田は早くに岩手に見切りをつけていたようで、予定を2ヶ月も繰り上げて岩手からの撤退を発表してしまった。
知事を3期やったと言ってもまだ54と言う若さ。彼と会ったことのある人の話では、小沢の苛めにはほとほと懲りたようで、できるだけ早く東京に引き揚げたい風だったとか。政界を去る気だろう。
岩手の貧しさは昔とあまり変わっていないようだ。県の名が示すように岩の県だ。だからあれだけの山を抱えながら針葉樹が無く、殆どが広葉樹。建築用材にならず、木炭や薪にしかならない。岩手の山は時代から取り残されたようなものだ。
他にこれと言った産業も無いから、公共事業が頼り。しかし支配者の小沢は野党の党首とあっては、それもままならず。逼塞感から何とか民主党の天下になってくれればと願っている人が多いようだから、増田の後の知事は決まったようなものだろう。とは言いながら岩手の展望は開けない。
先代の増田が参院議員の終わりに、築地で私が激励の宴を張ったことがある。しかしそれも空しく、増田は寂しく亡くなった。2代目で、今度こそと応援していたが、また撤退とは。残念だ。(文中敬称略)
2006・10・31