10月31日の各紙ではベタ記事にしかならなかったが、民主党の小沢一郎代表はまた子分たる地元岩手県知事を斬って捨てた。
増田寛也(54)。東京生まれの東京育ちだが、父親が岩手県出身の参院議員だったことから、今から11年前の春、建設省でキャリアを積んでいたところを、当時、新進党を束ねていた小沢が新橋の料亭に呼び出して口説いた。
実は増田の父親盛(さかり)も参院議員になる前は、自民党岩手県連に口説かれて農林省の局長を辞めて知事選挙に出たことがある。急なことだったので敢え無く落選したが、自民党に一泡吹かせたい小沢にしてみれば、その息子寛也こそは反自民党知事の最適任者。
当時としては43歳と全国最年少の知事はこうして誕生した。かくて小沢は副知事上がりの自民党候補を破り、岩手の小沢王国の始まりを決定づけたのだった。小沢は隣の秋田県も抑えている。知事が小沢の子分の元土建屋だからである。
しかし当選した増田は、次第に小沢離れを策する。それは1兆円以上の債務を抱える岩手県財政を再建するための措置としては止むを得ないものがあった。
特に県立大学の設立、東北新幹線の八戸延長工事の負担、公共事業の連発が赤字の主な原因だったから、これらを削減して行こうとする方針は、当然、小沢路線にタテつく県政となった。
またそれまで約5000人いた県職員もこれまでに300人減らし、給与カットも断行した。これでは県民の人気は出ても県庁内や土建業界の人気が落ちるのは当然である。
3年前の選挙では対立候補(共産党)に58万票の差をつけて3選されたのだが、小沢は昨年夏、増田を呼びつけ「いま、黙って辞めるなら大学教授の席を用意する」と脅したが、増田は断わった、といわれる。
そこで小沢は昨年8月、増田の4選出馬を阻むべく民主党岩手1区の腹心代議士達増拓也を来年の知事選挙に擁立することを早々に決定した。
あれほど甘言を弄して口説いた先輩の息子でも気に容ら無くなればさっさと斬って捨てるという小沢戦法がこうして地元でも発揮されたわけだ。
捨てられる増田を見て自民党が何度も声をかけたが、増田は既に負けを見越したのか、断わり続けた。10月30日の記者会見では国会議員への転出も否定し、東京で職を探すらしい。
父親の知事選敗北と参院時代の寂しさを個人的に知っている私は、増田は二代続けて岩手に馴染めなかったのか、いささかの感慨を禁じ得ない。それと小沢のこの先に思いを馳せる。(文中敬称略)