2006年11月02日

◆東條を倒した男

渡部亮次郎

アメリカへ1941年12月8日に攻めて行ったのは東條英機内閣である。開戦の詔勅(天皇が意思を示す文書)に副署(天皇の名に副えてする署名)したのは東條内閣の閣僚。その中に商工大臣岸信介(きし・のぶすけ)の名があったのは当然である。

しかし岸は途中で「東條を打倒しなければ日本は滅亡する」と考えが変わり、色々と手段に工夫を凝らした上で、自分1人で東條内閣の総辞職に持ち込むことに成功した。昭和19(1944)年7月18日のことだった。

若い方でも既にご存知のように、岸の孫が総理大臣安倍晋三である。

岸の娘洋子が新聞記者安倍晋太郎と結婚し、その次男が晋三だから孫である。その内閣発足に合わせて、知り合いのノンフィクション作家で評論家の塩田潮が「昭和の怪物 岸信介の真実」(ワック滑ァ)
を出版し、取材に協力した故を以て、1冊を送ってくれた。

岸については、彼が内閣を組織している頃はNHKの記者になり立てで秋田県の大館や仙台にいた。のちに政治部に配属された時は既に岸は代議士を引退していた。

時折会って隠居話を聞いたが、その来歴を系統だって調べる必要のないまま今日に至ったので、今回、塩田本で初めて知ることが多かった。

大変な秀才でありながら、それを鼻にかけるような事は絶対になかった。東大で教授になるべく残れと言われたが断わった。役人になって国家のために働きたいからだった。常に子分が出来たのは度胸もよかったから。

当時、役人と言えば内務省か大蔵省に入るのが普通だった。たとえば内務省に入れば、課長になる前に府県知事になれた。ところが岸が選んだのは「農商務省」。現在の農林水産省と経済産業省が一緒になっていた役所。

入ったところで岸は商工行政で頭角を現し、革新官僚の頭目と目されるようになる。其処に陸軍が目をつけ、折から建国した満洲国政府の幹部として呼び込んだ。

ここで岸は軍部を後ろ盾に統制経済を徹底し、行政官でありながら政治家の操縦まで習得。その功績で商工省となっていた古巣に復帰し、やがて満洲で昵懇になった東條に招かれて商工大臣になってしまう。

大臣という政治家になった以上、衆院議員にならなければおかしいと昭和17(1942)年4月30日の第21回総選挙に郷里山口2区から急遽出馬。初陣にも拘らず、定員5名のところ、2位にダブルスコアの差をつけて当選(得票は30,302)。

開戦当初、日本は破竹の進撃を続けた。フィリピンにいたアメリカのマッカーサー大将(のちに元帥)がオーストラリアに落ち延び、日本軍は開戦6ヵ月後には東南アジア全域を制覇した。

だがミッドウェー海戦で敗れてからの日本軍は各所で玉砕(壊滅)。それに応じて軍需物資の調達もままならず、東條は商工省を軍需省に衣替え。

大臣は首相東條が兼務し、岸は次官に降格。それは拙いと考えた東條は岸を国務大臣兼軍需次官とした。次官は国会議員を兼務できないことになっているから代議士を辞任した。

いよいよ追い詰められて行く戦局を見て「東條を降ろさないと戦争は終わらない」と岡田啓介、米内光政ら首相経験者による「重臣」らが秘密裏に「東條倒閣策」を練り始めた。岸がそれに加わった。


1947(昭和22)年5月3日に施行された現在の日本国憲法では第68条【国務大臣の任免】 で

 1  内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。但し、その過半数は、国会議員の中から選ばれなければならない。

 2  内閣総理大臣は、任意に国務大臣を罷免することができる。とあるが 、

1890(明治23)年11月29日施行の大日本帝国憲法(明治憲法)では

第十条 天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各〃其ノ条
項ニ依ル

第五十五条  国務各大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス

とあり、閣僚は天皇陛下の任命であって、総理大臣に閣僚の罷免権がなかった。天皇ハ行政各部ノ官制及文武官ノ俸給ヲ定メ及文武官ヲ任免ス。つまり各省の長(大臣)の任免は天皇がするということだ。

総理大臣の大命が降下したものは閣僚名簿を携えて拝謁し、閣僚名簿にOKを戴く方式。今の日本国憲法とは大違い。主権在民ではなかったからだ。

軍需物資調達を通じて反抗的になって行く空気を察した東條は内閣改造によって岸の放擲を策したが、改造のための辞表提出を求める東條に対して岸は「私はあなたに親任されたのじゃない、天皇陛下から親任されたのだから、辞表を出さない」と拒否した。

辞表提出拒否者が1人でもいれば、それは閣内不統一を意味し総辞職に追い込まれることになる。憲兵隊長を大臣公邸に派遣して腰の軍刀をガチャガチャさせながら脅した。

「黙れ、兵隊。お前のような者がいるから、この頃、東条さんの評判が悪いのだ。右向け右と言える力を持っておられるのは日本では天皇陛下だけだ、下がれ!」。憲兵隊長は「覚えておれ」と捨て科白をはいて出て行った。

辞表提出を拒否した閣議の夜、満洲で一緒だった星野書記官長が口説きに来たが、岸の行動は重臣たちと連携した東條内閣打倒工作なのだから、説得は無駄だった。背後の動きをようやく察知した東條はかくて総辞職した。1944(昭和19)年7月18日。

それから敗戦まで更に1年を要した。まさに車は急に止まらない。御伽噺だが急に停まれれば原爆2発を被ることも無かった。あまたの玉砕も回避されたはずだ。

ところでいみじくも岸が行使した総理の閣僚非罷免権、つまり現在のように閣僚を総理が罷免できないと言う制度。明治憲法には明文化した規程がない。天皇が親任した者を何人と言えども罷免できるわけがないから書く必要が無かった。

内閣については規定(成文)なく、閣僚は天皇の輔弼(ほひつ)機関(55条)。首相についてはは元老(げんろう)などの推薦に基づけて天皇が任命という枢密院の存在(56条)があるだけ。

閣僚は「天皇を輔弼(ほひつ)する以上、予め天皇から親任されていると解釈すべきだろう。首相の地位が閣僚より上とする条項は見当たらない。

従って首相が内閣改造をしようとすれば当該者に天皇宛の辞表を出してもらい、後任候補を天皇に親任していただくしかなかったわけだ。だから東條は岸に辞表を書けと命じても、拒否されたから馘にはできなかった。前例があった。

日米戦争開戦前の昭和16(1941)年7月16日、第2時近衛内閣が日米和解反対派の松岡洋右(まつおかようすけ)外相を辞めさせるためにはどうするか。辞表を書くようなタマではない。

とすると奇策だがあえて内閣は総辞職し、2日後に外相だけ取り替えて第3次近衛内閣を発足させたという苦肉の策。岸は松岡の親戚である。

のちに岸は「死を覚悟した時は3度ある。辞表提出を拒否した時。A級戦犯で拘束された時、日米安保条約改訂で官邸に閉じ込められた時」と語った。           文中敬称略。2006・11・01



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